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梅雨の日曜日

連日の雨で溜まりに溜まった洗濯物からは、つんとする酸っぱい匂いが漂っている。明日は晴れの予報だけど、仕事で洗濯どころじゃないはずだ。かといってこのまま放置するわけにもいかない。僕は洗濯物をエコバッグに詰め込み、紺の布地に緑のチェックが入った傘を片手に部屋を出た。

駅に向かう坂道を下っていくと、ツタの絡みついた看板が店の長い歴史を感じさせる、こぢんまりとしたコインランドリーが見えた。梅雨の日曜日に考えることは皆同じようで、狭い店内は混み合っていた。この辺りに長年住んでいそうな50代くらいの男と、Tシャツにハーフパンツといった格好の学生らしき男がいた。僕を含めて3人だが、狭い店内を埋めるには十分な人数だった。なんともむさ苦しい。二人とも乾燥が終わるのを待っているようだ。

乾燥機と洗濯機が別々だ。つまり洗濯が終わったら、衣類を取り出してわざわざ乾燥機へと移さないといけない。「洗濯だけ先に済ませておくべきだったなあ」と思った。

30分で500円のドラム式洗濯機に、僕はしぶしぶ硬貨を投入した。ガコンと回りだす。洗濯が終わるまで暇になったので、辺りを散歩することにした。コインランドリーを出て、線路沿いの道を通勤方向とは逆に向かって歩いていった。道路沿いには美味しそうな定食屋がある。いつか行ってみようと思った。

雨は小雨になり、僕は傘を閉じた。濡れたアスファルトの道をしばらく進むと、左手に雑木林が見える。小さな丘のようでもあるそこには、上へ続く階段がある。先は見えない。面白そうだから登ることにした。

数段登ると、階段の木の板のところに、細長くて黄色いうねうねした生命体らしきものがいることに気がついた。顔を近づけてよく眺めてみた。ヒルだ。種類は分からない。この街はムカデが部屋に出るくらいに自然が豊かだから、ジメジメした雑木林にヒルの一匹や二匹いたところで不思議ではない。理屈はわかる。けれどやはり気持ちが悪かった。

ヒルを乗り越えてこの先を登るべきかどうか悩んでいると、後ろから声が聞こえた。

「この先に用事でもあるんですか?」

振り返ると、70代くらいの老夫がいた。短く整えられた白髪に、肌は程よく日焼けしている。目のところには、どこか親しみを感じさせるシワがある。初対面にもかかわらず、僕はこの人物に自然な好意を抱いた。世の中にはごく稀にそういう人がいる。

「いえ、散歩中に気になったので、登っているだけです。上に何があるんだろうと思って」

少し緊張の混じった声で僕は答えた。何も悪いことはしていないのに、どこか後ろめたい。僕はユニクロの黒いスキニーにマスタード色のシャツという格好だったから、ずいぶん目立ったはずだ。

「その先は行き止まりですよ。上に登ると中学校があって、関係者以外は先に進めなくなってるから」と彼は言った。

「そうなんですか」

「散歩なら、近くにお寺があるから、そこに行ってみるといいかも知れませんよ。今なら紫陽花が咲いていて綺麗ですから。場所は、、えーと、まあ、携帯で調べていけるでしょう。今はみんな持ってるだろうから」

梅雨とお寺と紫陽花。随分と素敵な組み合わせのように思えた。



彼の勧めにしたがって訪れたお寺の境内には、色鮮やかな紫陽花がいたるところに咲いていた。花を眺めていると、不思議と心が安らいでいった。平日の都心の喧騒が嘘みたいだ。境内には僕と同じように、紫陽花を眺めにきた人達が他にも大勢いた。ほとんどが高齢で20代の若造は僕だけだった。明らかに場違いだ。けどまあ綺麗なのだからいいか、と思った。人とすれ違うときは傘がぶつからないように、お互いに傘を上げたり下げたりした。こんな休日の過ごし方も悪くない、と思った。


コインランドリーに戻ると、洗濯は既に終わっていた。濡れた洗濯物をカゴに一旦入れて、乾燥機に放り込んだ。100円で10分だから、とりあえず300円投入して、30分乾燥させることにした。その間はまたもや暇なので、今度はコインランドリーの向かいにある喫茶店に入った。店内に人影はほとんどなかった。

入ってすぐ目の前にショーケースがあり、中には種々雑多のサンドイッチが並べられている。どれも美味しそうだ。でもどれを選んだらいいか分からなかったので、コーヒー付きのランチセットを頼んだ。サンドイッチを2種類の中から選べるらしい。僕はかぼちゃコロッケのサンドイッチを選んだ。

カウンターの向こうには、茶色のロングヘアを後ろで一つにまとめた女性店員がいた。年の頃は20代くらい。声には柔らかな響きがあり、マスク越しに笑顔を浮かべている。注文を受けると彼女はショーケースの方へ向かい、かぼちゃコロッケのサンドイッチを持ってきてくれた。どうやら自分で取ってレジに持ってくる方式だったらしい。

他の客との十分な間隔をとって席に座り、かぼちゃコロッケのサンドイッチを食べた。パンが適度に湿っていて、それでいてコロッケの方は適度にカリッとしているからとても美味しかった。コーヒーも飲んだ。どちらかといえば爽やかな風味がしてこれも美味しかった。インスタントじゃないコーヒーを飲むのは久しぶりだった。

サンドイッチを食べ終え、残りがコーヒーだけになると、僕はジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』を開いて読み始めた。若き作家とその親友が広大なアメリカ大陸を横断する話で、村上春樹の『スプートニクの恋人』の中で登場する作品だ。最近はこういう風に、小説の登場人物が読んでいる作品を、自分もまた読んでみるという読み方をしている。本から本へと旅をしているみたいで、なかなか面白い。

本を読みながら、ときおり視線をカウンターの方に向けた。さっきの女性店員が戻し口の食器を片付けたり、コーヒーメーカーを掃除したりしているのを眺めた。テキパキとした、見ているだけで気持ちの良くなる仕事ぶりだ。3人の家族連れがやってきて、サンドイッチのテイクアウトをたくさん注文した。僕は本に目を戻した。

読書に熱中していたら、とうに30分を過ぎてしまっていた。乾燥は終わったはずだ。食器を戻し口に置き、向かいにいる彼女に向かって「ご馳走様でした」と言った。「ありがとうございました」という柔らかな声が向こうから聞こえてきた。そういえば仕事以外で若い女性と接したのは、ものすごく久しぶりだった。微かな緊張と、微かな高揚を感じた。


コインランドリーに戻ると、学生風の男が3人いた。彼らの着ているジャージの背中には、揃いのチーム名が印字されている。話し方からも、運動部特有の力強さと仲間意識が伺えた。彼らは僕をチラッと見て、また会話に戻っていった。なんだか居心地が悪い。

乾燥機を覗いてみると、まだ洗濯物が回っていた。おかしい。とうに30分は過ぎたはずだ。そこでよくよく注意深く見てみると、洗濯物は僕のものではなかった。洗濯物が消えている。どこにいった?

乾燥機の前でしばし茫然としていると、3人のうちの誰かが、乾燥の終わった僕の洗濯物を何処かにまとめたのかも知れないという考えに至った。僕はあたりを見回した。すると予想通り、僕の洗濯物は赤い籠の中に乱雑に詰め込まれている。ほっとした。けれど、いくら混んでいるとはいえ、他人の洗濯物を勝手に取り出すのはどうなんだろうとも思った。カゴに入れてくれたのはありがたく思うべきなんだろうけど、洗濯物を漁られた気持ち悪さは残る。感謝すべきなのか怒るべきなのか、判然としない感情を抱えたまま、店を出た。

乾燥した洗濯物を詰めたエコバッグを肩にかけ、アパートへの道を歩いていった。洗剤の香りがふわりと漂ってくる。細い坂道の左手に保育園が見える。入園門の近くには紫の紫陽花が咲いていて、コインランドリーの出来事で少々荒れた心をなだめてくれた。ジメジメして洗濯物は乾きづらいけれど、梅雨は綺麗な紫陽花が咲く。おじいさんの勧めで紫陽花の綺麗なお寺に行き、乾燥待ちの時間に、素敵なお姉さんのいるカフェで本を読む。梅雨も悪いことばかりじゃないな、と思った。


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