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2022年4月の読書

4月。ようやく『21世紀の資本』を読み終えることができた。

寝てもサメても 深層サメ学

現在、科学的に有効な種として認められているサメは500種を超える。そのなかでも一般に知られるサメはホホジロザメをはじめごく少数で、ほとんどのサメは知られていない。本書では有名なサメもそうでないサメも紹介されている。

構成としてはほとんどがサメのトリビアなのだが、サメの生殖が多様なことやサメとエイの関係性にまつわる話は非常に面白い。トリビアが並ぶ本としては無類の面白さだ。たとえばサメは軟骨魚類なので歯以外の化石が残りにくく、研究に苦慮するというのも本書を読まなければ知ることはなかっただろう。Z級映画として有名なシャークネードに対し「サメの方から会いに来てくれるのは研究者にとっては夢」と評するのには思わず笑ってしまった。

巻末の著者による対談も面白かった。「科学は証明プロセスが論理的なのであって、テーマ探しは直感」「社会の要請に合わせすぎるとサメ保全の研究や見た目が美しいシナリオに偏ってしまう」といった話は生物学以外にも言える話だ。「サメのことばかりやるのではなく、基本を大事にしてほしい」というメッセージも頷けるものであり、射程の広い本である。

はじめての認知療法

10年以上ぶりに再読した。コンパクトかつ安価で読めるという点では2022年時点でも最良の入門書だろう。

そんなに簡単にポジティブに考えられるようになるなら、あなたも悩んでいないはずです。気持ちを切り替えようと思っても、それがなかなかできない。だから悩んでいるのです。

大野裕『はじめての認知療法』pp.23

のように、しんどさの渦中にいる人間に語りかけるような口調が優しい一方で、優等生的な感じが強い。これは日本におけるアサーションの先駆者である平木先生の本にも言えることで、主流派心理学は大野先生や平木先生のような優等生方面に行くか、信田先生のように政治方面に行ってしまうのが残念だ。

「優等生的」というのは社会適合を無条件に「よいもの」とする態度とも言い換えられる。表層にある自動思考を通して深層にあるスキーマにアクセスして社会適合していくという考え方は、いくら否定しようとも

認知療法は、うつ病の人の間違った考え方を変える治療法だという誤解

大野裕『はじめての認知療法』pp.5

に漸近してしまう感がある。結局は「正常な社会生活」を目標としてしまうので、この辺りはラカン派の持つ開き直りのほうが合う人も多いだろう。現に自分はラカン派やシオランが持つある種の開き直りに救われているわけで、日本人の書いたものが合わない人は海外のものを読むと合うこともあると思う。

また、具体的な技法については分厚いぶんD.D.バーンズの『いやな気分よ、さようなら』のほうが手厚い。「はじめての」と銘打っているので本書で感覚を掴んで、具体的な部分はバーンズを参照したほうが良いように思える。

Web API: The Good Parts

2014年の本なので、技術面の解説はけっこう古くなっている(たとえばIEのバージョンについて、現代ではIEをサポートしない選択ができる)ものの考え方の面は古くなっていない。根幹をなす思想は2つで、

  • 仕様が決まっているものは仕様に従う

  • 仕様が存在していないものはデファクトスタンダードに従う

ということに帰着する。APIは Hackable = ドキュメントを首っ引きで読まなくても使えるようにせよ、というのは金言だろう。2022年に読んで新しい知見をたくさん得られるものではないが、サクッと読めるのでチームで認識を合わせるのには使えそうな感じはする。

21世紀の資本

資本収益率(r)が、産出と所得の成長率(g)よりはるかに大きいとき、恣意的で持続不可能な格差が生まれるというのが大きな主張だ。指数関数が持つ力を考えればこの「r>g」という不等式が巨大な格差を生むというのは理解できる。

r>gが起こるのは歴史的な経験であり、確たる理由があるわけではない。仮にg>rであれば無制限な借金が成り立つ、という反実仮想はあるが、それも想像に過ぎないのがポイントである。

本書は第一部で様々な議論の地ならしを行った後に第二部でr>gの歴史的経緯を丹念に観察する。第三部では格差の構造を観察し、第四部では政策提言に踏み込む流れになっている。

歴史的な経緯を見ると、以下のことがわかる。

  1. 不動産の平均的な資本収益率は3%〜5%程度、対して株式は7〜8%なので、現代の金融資本主義がこのまま進展すると恐ろしい格差が生まれる。これは民主主義にとっても良くないことである(しかもより大きな資本のほうが資本収益率は高い)

  2. 20世紀において格差の縮小が進んだのは2つの大戦が様々な資本を破壊した上、戦後復興の段階でgが大きく伸びたことや戦費・その他のために「没収的な」課税が行われたからである。

  3. 富の保有割合という意味では過去も現在も下位50%の貧しさは変わらないが、20世紀の後半に上位50%のなかに中間層が生まれたことがこれ以前の時代とは異なる。

歴史を概観することは様々な洞察をもたらしてくれる。たとえば「昔は定期預金が高い利率で……」という昔話をする人がいる。だいたいは「今の低利率は経済の衰退を示すものだ」という話に繋がるが、経済の衰退を示すのに定期預金の利率の話が相応しくないことは歴史を見れば一目瞭然だ。歴史的事実として、非常に高い経済成長率はキャッチアップの段階でしか発生しない。ピケティの主張は左派的ではあるが、単純なポジショントークに陥らないためにも事実を押さえることは大事だろう。

政策提言としては「累進的な資本課税」が提唱される。ただしこの前提としては国際間での協調が必要であるという辺りは共同研究者であるSaez, Zucmanによる『つくられた格差』でも述べられていた。実際、イタリアなどが単独で資本税を導入しようとした際には大失敗に終わったそうだ。この辺りの詳細な話は『つくられた格差』のほうが読みやすい。

国際間で協調するには、つまり租税回避をどうやって止めるかという話になると流石に歯切れが悪くなる。EUの役割に理論的な期待はされるものの、どこか諦めが漂う筆致である。『つくられた格差』のほうが威勢良く書かれていたが、やはり画餅なのであろう。

最後になるが、14章に面白い警句があったので引用しておきたい。

ベル・エポック期のフランスの経験が示すように、経済的、金融的なエリートたちは、自分の利益を死守するためなら、天井知らずの偽善ぶりを発揮する——そしてここには経済学者たちも含まれる。

トマ・ピケティ『21世紀の資本』14章

サプライサイド経済学者と経済エリートの結託という現象を見ていると、21世紀の資本主義には暗い未来しか見えない。

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