GENJI*REDISCOVERED       今日の源氏物語  「桐壺」     母の死から始まる物語

画像1 猛暑つづく立秋、残暑お見舞い申し上げます。  危険も感じるこの暑さには病身でなくてもついていけません。ましてや、天候のままを受け取るしかない時代、人力に依ってしか涼が得られない昔、その時代にタイムスリップした現代人は生き残れるでしょうか…。
画像2 『源氏物語』のはじめ、『桐壺』帖 1ー4 光源氏が3歳になった夏に、母 桐壺の更衣が病に倒れます。物語には病名も症状も書かれてはいません。帝の寵愛(と、他の妃妾たちの嫉妬)を一心に集めたことによる心労・ストレスが大きく係わっているのは紫式部も書いていることです。元々丈夫な方じゃなかった…と帝、それがより愛おしさを募らせ、結果療養(宿下がり)が遅れて危篤にまで。ここも帝の破格のはからい=身分としては異例の「輦車」での退出となります。
画像3 桐壺の帝は、この更衣の容態においても、傍に居てほしいと、輦車の宣旨を出していながら退出を許せないでいる。本文には「見送っていくこの出来ない自らの身分を嘆いた」とあって、二人の別れの絶唱が何処で何時なされたか…が少し掴みづらい。「絵」では、輦車に乗せられた桐壺の更衣、それを簀子まで出て見送る帝を描く。今まで恋しさに例外を繰り返してきた桐壺の帝が、去っていく更衣の車を見送らないで居られるはずが無いではないかと…。
画像4 場所は「後涼殿」馬道。 帝の所まで一番遠い淑景舎=桐壺の更衣を、周りからの嫌がらせから守るために、帝が 自らの生活の場「清涼殿」の 西に繋がる殿舎に居場所を移し与えていた-その「後涼殿」からの、人目を避けての退出。輦車の仕丁たちから、帝の姿を隠すために、左大臣は「年中行事障子」を殿上の間を通しての移動を差配。
画像5 「 限りあらむ道にも 後れ先立たじと 契らせたまひけるを。さりとも 打ち捨てては え行きやらじ」と帝、これは和歌に成すことも出来ない慟哭。更衣は「限りとて 別るる道の 悲しきに いかま欲しきは 命なりけり」とかろうじて「生きたい」と息も絶え絶えに返歌す。(絵で見えている光景は、全て暗闇の中、現代人の視力では見えない…殆ど手探りの夜のこと。紫式部が「何日」と書かないので、月明りの有無も不明。衝立を動かさずとも…であったかもしれないが「年間スケジュール」は、来しかたの思い出の便でもあり…。
画像6 12世紀に描かれた(現「国宝本」)『源氏物語絵巻』(百以上の場面だったろうそ)の一番目=最初の「絵」は、どのシーンだったでしょう…。帝と更衣の幸せな時間…だった?江戸期の作例がある 赤子の光と帝の 初対面の場面?他の妃のけしからぬ行いはまず描けないし、等々を考察。「国宝本」の編者の主題への拘り、ドラマ性の追求 等から、きっとこの「別れ」の段を頭に据えただろうと思います。身分、居場所、生死、夫婦、親子…の境界と距離の物語。*画像のダウンロード、転用は無きように願います。

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