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チョートクのカメラノート📷🎥📹

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2019年8月の記事一覧

ライカカメラにスローシャッターは要らないと言うのが私の哲学です。半世紀1度も使ったことがないからね🐥8/31🐥きやうと2日目

世の中一般のライカ人類の皆さんは、バースデイライカとか言うのでその人の生まれた年のライカを持つと、幸せになるのか不幸になるのか知らないけれどもとにかく人生の節目だとか言うことになっているらしい。私は1947年生まれなのでライカの会社も1番ライカを作る材料がなかった頃なのでこれができないのである。1950年代半ばよりも後に生まれた人はライカカメラが1番充実していた時期であったから、結果として素晴らしいライカを手にすることができる。そして残念ながら1971年より後に生まれた人は、

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私とタバスコ、中平卓馬さんとタバスコ🐥8/30🐦🐥本日きようと

このホットペッパーソースに最初に出会ったのは高校生の頃にでも日本の都心の喫茶店であったと思う。スパゲティーナポリタンにはこれをかけるというのが大人の技であるということを教わったのだ。そのことを教えてくれたのは写真家の須田さんだったような気がするが須田さんとのお付き合いは大学生になってからであるから時間がちょっとずれている。スパゲティーナポリタンと言うのは当時の日本の喫茶店のランチの定番で日替わりで豚の生姜焼きとスパゲティーナポリタンを交互に出していれば日本経済の高度成長期のお

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ライカQ2のシャットダウンするときにも赤いマークが見えるのは何とかならないのか?🐥NEW8/29🐥🐦😎❤️

Q2のお話の続き。このカメラ1台だけ持っている写真家が居るとしたら私は全面的にその人を信頼します。ライカで遊んでいるわけではなくてライカでこの現実と戦っているからです。デジタルであろうがアナログであろうが同じことで、ロバートフランクが1台のライカを持ってアメリカを放浪したときの冷めた冒険と言う感じがするから。

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127フィルム。つまりベストサイズのフィルムの立ち位置が問題なんです。フィルムの装填方法がわかりません🐥NEW8/28🐦🐥

私の父親はしょうもないアマチュア写真家で、コンタックスを持っていてこれはレンズが良いのだと自慢していたが、あれは知り合いから借りたものらしい。でもこれは結構経済感覚の発達した人間のやることであって、映画機材などは全てがレンタルである。ところがアマチュアの人は高価なカメラを買ってそこで満足してその先に進めない。私の周りにもたくさんそういうカメラメーカーのスポンサーになる人がいます。

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ZnowカメラとヤシカPentamaticのデザインが非常によく似ている件について🐥8/27🐥

幻の一眼レフと言われているのがZnow Cameraである。1950年代の終わりに登場してその当時1番進んだメカニズムを持っていた。ただ残念なことに発売には至らなかった。椿山荘で製品の発表会までやっていながらその後が続かなかったのであった。そのカメラデザインが非常に優れていて優秀なデザイナーがバックにあったことがわかる。GKインダストリアル研究所のデザインであったといわれている。

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ブルーモスクの真向かいにあるホテルAlser。そこに缶詰で原稿書いていた🐥🐦8/26🐥

トルコ航空のビジネスクラスのサービスが良かったので以前よく使っていた。ビジネスクラスの5枚つづりの往復チケットというのがあったのだ。それは嘘であって関係者から5枚つづりの往復チケットを買ったのである。値段は忘れたが結構安かった。 オーストリアウィーンに住んでいた時1度だけ友人とイスタンブールエクスプレスに乗ってイスタンブールに遊びに行ったことがある。写真家になる前の古屋誠一とか画家の山本博と列車の中で馬鹿をやりながら車内で2夜を過ごしてしてイスタンブールに行ったのである。お

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緊急事態フィルムトラブルが起こったとき、オリエンタルシーガルのブラックのフィルムのコンテナはかなり役に立つ🐥8/25🐥

40年前コダクロームを使っていた頃、そのフィルムコンテナは非常によくできたアルミの缶詰 であった。当時はまだ日本に現像サービスがなくて事前に現像料払い込みの布の封筒に入れてそれをハワイに送ったりしたのである。それは勘違いで60年前の話だ。でも郵送のトラブルからフイルムを安全に保つためにアルミ製のコンテナがしっかり作られていた。

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日本労働学会大発見。Siriが馬鹿です。ロード学会ね。労働新聞じゃないよ🐥8/24🐥

ついこの間ネットオークションでブラック仕上げのロードカメラが50,000円以上と言うレコードはいを記録した。私はこのブラックロードを何台か持っているが非常に優れたスナップシューターである。でもきれいなものはなくて巻き上げの調子が悪かったりする。撮影中にファインダーアイピースが取れてどっかに行ってしまった。でも40ミリの広角レンズが付いているからファインダーを覗くからアクセサリーシューにファインダーをつけてそのまま撮影することができる。

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Coolなお名前🐥 8/23🐦🐥😎

昨日あたりから朝晩急に涼しくなった。といっても気温は25度以上ある。毎年のことながら年寄りはこれでがっくりきますね。最近発見した言葉であるが私の最初の個展が1969年のちょうど今頃に開催されて、まさに半世紀である。その間に何が起こったかと言うことを考えてみるに、確かなのは私が半世紀おいたと言う事と、体力が50年分低下していると言うことである。他の精神的心理的なでっち上げはいくらでもできるけれど、ここだけは粉飾決算なしで事実である。その発見が気にいっている。

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セミ版で16枚撮りのローライと言う裏技がある🐥NEW9/1🐥間違って配信してしまいました。したがって9/1の配信はございません。

ローライフレックスは普通は6センチ× 6センチの正方形の画面である。それで12枚撮影できる。以前は220のフィルムがあったから24枚撮影できたのだが最近はそれができなくなったのが大変不便だ。ところが裏技としてローライフレックスで 16枚撮影することのできるアクセサリーがある。6 × 6で12枚撮りと言うのは撮影が佳境になってきてもうちょっと取りたいと言うところでフイルムがアウトになってしまう。16枚と言うのは4枚プラスになるから精神的には楽である。

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巨匠写真家土門拳はどんなライカを使っていたのか?ちょっと新発見だ。🐥8/22🐦🐥

土門拳に対して私が近親感持っているのは、彼の仕事場が私が住んでいる佃島の反対側の明石町であることだ。古いカメラ雑誌であったと思うが当時流行のスポーツタイプの自転車に乗った土門はケースに入ったライカカメラを斜めがけにして疾走しているのである。

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新潮社から出したエッセー集、屋根裏プラハの表紙なんだけどこれダブルエクスポージャです。🐥8/21🐦🐥🐥

新潮社と言うのは一流の出版社だけれど、そこで出している文芸雑誌新潮と言うのはやたらステータスが高くて、私が尊敬する稲垣足穂は戦前から戦後にかけてよくこの雑誌に掲載していた。稲垣が住んでいたのが横寺町であって新潮社に近かったので、原稿の売り込みに便利だったらしい。稲垣が書いているが担当編集が1年にいちどは原稿を買ってくれたそうでそれが自分の唯一あてにできる定期収入であった、とある。 私もこういうメジャーな雑誌にいつかエッセイを書きたいなと思っていたら、文芸評論家の福田和也さん

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ホビージャパンのカメラムックの京都の撮影だが、明るい21ミリレンズと、暗い5センチレンズを持っていく🐥8/20🐦🐥😎

月末から京都の撮影である。以前京都に撮影で行ったのは数は多いけれど、忘れられないのは1981年の大晦日から82年のお正月にかけて行った京都である。私は30代であった。それはカメラ雑誌アサヒカメラの特写で持参したのはニコンF3 であって、レンズはオールドタイプのPC Nikkor35ミリだった。今年のお正月にハノイでタクシーの中に忘れてきたレンズである。この撮影はモノクロームで全部が縦画面であった。寺町あたりにある古い商店とか、ラビットスクーターの広告などが当時はまだ残っていて

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エプソンRd1写真集から。プラハのアトリエのブレックファースト。30年以上こんなものを食べていた🐥 8/19🐦🐥😎

プラハに37年間住んでいましたと言うと皆びっくりするのだが、ずっと住んでいたわけではない。1年に3回か4回、プラハに着陸するわけである。友人でこのアトリエを知っているのはただ1人、BMW野々宮だけである。カメラジャーナルのツアーをやったときにツアーの全メンバーを送るので空港に行く途中であったがその前に蚤の市で私はビールの大きな1箱を買ったので、野々宮に手伝ってもらってアトリエまで運んだのである。

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