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今はもう存在してない。ウィーンの古道具屋さんでかなりの量の衣類を買ったのだが、それは今でもきることができるのである。要するに、あの当時の私の体重と今の体重はほとんど変わっていないと言うわけだ。
バブルの頃の取材でパリに行った時は、5つ星ホテルに宿泊した。ヴァンドーム広場の何とか言う有名なホテルである。自費でパリに行くようになってからは、ヴァンドーム広場のその有名なホテルから広場を東に入ったところの三つ星ホテルに暮らしていっぱい飲みに行くときには、その5つ星ホテルに行った。
東海道新幹線であるが、大崎のあたりからずっと西に向かって御嶽山のあたりまで道は一本道でまっすぐである。
プラハの旧市街というか、モルダウ川の岸辺。日本大使館のある町並みの並びにこの黄金の蛇の家がある。調べた事はないが、ずいぶん古いものだと思う。
東西ドイツ統合の数年前のことである。朝日グラブの撮影で東ベルリンの工場建築の撮影をした。
1955年であったが、当時の皇太子殿下がアメリカを経由してヨーロッパにいかれる。6ヶ月の大旅行なさった。ヨーロッパではシュツットガルトを訪問してカールツアイスの工場をご見学なさり、その時のお土産に購入したのがコンタックス2aのである。
Leica M10で撮影したショットである。2千19年の11月に用があったわけではないが、台北に行った。ライカの代理店に会いたい人がいたので、その人は日本語が堪能だから私の本を数冊携えて行ったのである。
Eclair Cameflexカメラは16ミリと35ミリフィルムのフォーマットを数分以内に切り替えられると言うのが特徴であった。
フランスパリのエクレールと言う映画のカメラと言うよりもキャメラの制作カンパニーは、戦前からメジャーな35ミリ映画撮影機を作っていた。
クラシックデジカメを愛する市民の会というのができて、2年位になった。1000人近いメンバーがいるのだけれども、皆さん大切に使っているデジカメがいずれも10年以上前のやつなのだ。
佃島の25年位間、昔は雨の日に歩いていると、巨大ながまがえるさんが傘ゴソッ出てきたり、晴れた日の夕方には蝙蝠さんが端端飛んでいた時代が確かにあったのだ。
スナップ撮影をするときには、広角レンズばかり使っているので、85ミリとか135ミリのレンズを使う事は稀である。数年に1度位思い切って85ミリのレンズをつけたりする。これはソ連製のゾナーのコピーであるから85ミリではなくて、正しくは8.5センチと言うべきだな。
日大の写真学生の頃、1番最初に歩きまわったのが1966年の銀座界隈であった。実家が文京区にあったから、1番近くでメトロで行ける盛り場と言う感じである。その後1968年になって、東京にはデモンストレーションの嵐が吹き荒れていて、1968と言うタイトルはずいぶん本のタイトルにもなったり、私がコレクションになっている東京都写真美術館でも1968と言うタイトルで外国あたりに企画写真展を持っていったりした。
今はもう存在しない。フイルムメーカーが作っていた一眼レフというのがそれぞれに個性的なものであった。何が個性的かと言うと、メジャーな一眼レフにはなれなかったと言うことである。それぞれのカメラは2を開けると中にシールが貼ってあって、コニカフィルムを使いましょうとか富士フイルムをどうぞとなっていたのだが、ここら辺の戦略がうまくいかなかったようだ。