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この映画監督が大好きと言うのはまさに時代遅れであり周囲には言いたくないのであるが、そのストーリーと言うよりも彼ができない使っていた映画撮影機に興味がある。
プロフェッショナルカメラ展示会が池袋のサンシャイン60でやっていた頃の話である。会場はやはり日本の人が多いから、ファーイーストのマーケットであるということがわかるが、長年私がやった事。昨日の取材では我々同様人はごくわずかである。そうなると日本人以外の人と話をすると言うことになって、偶然会った人が、ノーブルさんと言う人で、イギリスでカーボン製のレーシングヨットを作っている会社の社長さんだった。
もともとこの写真家はプラハで絵画を志したのだが、共産党を称える。絵画を書けと言われて、拒否してから苦難の人生が始まった。何度も精神病院に収容されたりもした。 絵画から写真に転向して、手作りのカメラで彼が住んでいたスロバキアの小さな街でプールの女性とか通行の女性をホームメイド、カメラで撮影した膨大なプリントを制作した。 地元では単なる変人扱い。しかも5月1日の命令には、予防手段として精神病院に収容されたりした。ひどい待遇だった。 非常に面白いのは、その当時の社会主義国では
人間の生活のバタンと言うものはそう変わることがないから、50年前も今も同じである。チェコの偉大な写真家の仕事場のタイトルがラビリンスと言うのであってこれはなかなかタイトルでしかも仕事机の前がもので埋め尽くされている。
私の読者さんが最近私の写真集2冊を手に入れてそれもかなり安かったと言うので喜んでくれた。その2冊の写真集は90年代後半に出したリコーのコンパクトフィルムカメラのやつとその後モスクワから赤旗が降りた時に取材に行ったモノクロのスナップショットである。 この2冊の共通点で、時代が変わったなと痛感するのは、まずモスクワの中心部にあるKGBの本部のビルを前に兵士が立っているところで、撮影しても別に文句を言われなくなったこと。 もう一つは9イレブンが起きる前は、このようにコックピット
カメラのオリジナルボックスのコレクターを認識している私である。消費段階でカメラのオリジナルボックスはどんどんなくなっていくのが社会のムーブメントと言うものだ。いつ頃からそのようになったのかと言うことを考えてみると、どうも80年代初めごろからではないかと思う。今はもう無くなったカメラのさくらやというのが新宿駅の東口にあった。それで背景はどういうことだったのかはよくわからないが、何かの理由で、当時の高級一眼レフの箱が捨てる状態で、お店の前に結構な量で捨てられていたのである。 そ
ブラックロードと言うカメラのことをいつも考えている。プロ用であるがアマチュア用であり、日本には沢山のブラック仕上げのカメラがあるが、その中で1番ハイレベルなのがこのカメラであると言う事は50年考えてやはり間違いがないと言うことに気がついた。
ライカカメラに対抗するコンタックスカメラのこのいわゆるブラックコンタックスが最初に登場したのは1932年の4月であったそうだ。当時はまだフォトキナが存在しなかったから、発表されたのはドレスデンであったと記録されている。今ではブラックコンタックスと呼ばれているが、当時は対抗するライカもまだブラック仕上げが普通であって、その年の後半に初めてクローム仕上げのライカが登場してあんなピカピカしたの笑家ではないと批判されたそうだ。
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1番初期のニコンのレンジファインダカメラは601で始まる製造番号だ。その最初の300万位が数百10,000円の値が付いてコレクターズアイテムになっている。
^_^ 1番winの暮らしで記憶に残るのは5番の路面電車である。ウィーンのプラッター公園を出発して、ドナウ運河を超えてwinのやや北の部分をぐるりと反時計方向にめぐって、それから西に進んでウィーンの西駅につながる全部の乗車時間は結構長くて1時間弱である。小さなwinの街の路面電車としてはなかなか長距離いた。
1970年頃に1番最初に手にしたライカタイプのライカなタイプのカメラがこれだった。高田の馬場の堀部安兵衛商店で手に入れて10,000円以上する。高いカメラだった。こちらの初任給が35,000円だからね。
Vista双眼鏡