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私のオリンパスカメラ。私の高千穂光学。

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私がオリンパスに感謝するのはちょうど11年前に世界で1番最初にマイクロフォーサーズと言うデジカメのフォーマットを実行したことにある。それで私のデジタルカメラに対する考え方が基本的…
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2020年7月の記事一覧

1   6月24日の夕方のニュースの第一報だった。オリンパスがカメラ部門を売却すると言うのである。ショックであった。

6月24日の夕刻のことであった。ウェブニュースを見ていたらオリンパスと言う文字列が目に入った。経済ニュースなどでオリンパスと言うのはどういうことなのかと最初はよく意味がわからなかった。カメラ関係のニュースだったら新製品とか市場のシェア率とかオリンパスは頑張っているとかいろいろなニュースが入ってくる。でも経済ニュースでオリンパスが登場すると言うのは何かネガティブな印象があった。というのも10年近く前であろうがオリンパスは粉飾決算でいざこざが起きたことがあった。その頃私はオリンパ

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2 日本ビジネスパートナーズと言うファンドに売却して今までのオリンパスブランドはそのまま継続するそうである。マイクロフォーサーズは好調と聞いていたので意外な展開であった。

オリンパスが映像部門を閉鎖してそのまま日本ビジネスパートナーズと言うファンドの会社に生産を移行してその業務が今年の年末で終了するそうである。オリンパスの今まで作られてきた人気のデジカメのブランド等はそのまま引き継がれる。

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3 ちょうど10年前にオリンパスのマイクロフォーサーズに初めて出会った。それで登場したばかりのPenデジタルのムックを作るために数回ヨーロッパに行ったのである。

私とオリンパスのデジタルカメラとの決定的な出会いは2009年の夏のことであった。それまで私はエプソンのレンジファインダデジタルカメラを使っていたのである。これはライカがエム8を出す数年前に世界で1番最初に登場した画期的なカメラであった。エプソンの最初のレンジファインダーの写真集を制作したりプロモーションを行ったりしたのである。今から15年ほど前のことだ。私は一般のデジカメ愛好家とはタイプが異なるから自分が満足するデジタルカメラが存在すればそれをとことん使う方のタイプである。

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4 オリンパスと言うカメラも私にとっては50年以上の付き合いだ。私が最初に使ったオリンパスのカメラは6センチ× 6センチのオリンパス6であった。日大の写真学科の1年の時だった。

オリンパスカメラとの付き合いは半世紀以上になるのである。1番記憶に残るのは昭和30年代に作られたオリンパスワイドを中野の中古カメラ店で買ってそれをずっと使っていたことだ。他にオリンパスのどんなカメラを使ったのかと考えているいて今記憶の底から引っ張り出したオリンパスの古いカメラがある。オリンパスシックスと言うシンプルな蛇腹のカメラである。有名なZuiko 75ミリがついているこのレンズは戦後の日本のカメラ工業を元気に引っ張っていたレンズなのである。戦争直後はどこのカメラメーカー

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5 日大の写真学科に入学したときに私の写真術を教えてくれたのが実はライカではなくオリンパスワイドカメラであった。

ブラックペイントのライカM2を買った時は、実に天国に登るような気分であった。当時のライカは非常に高価だったしそれよりも凄いのはライカと言うのは耐久消費財を完全に超越した存在であって手に入れたらそれこそ一生モノと言う安心感がそこに存在したのであった。

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6 1971年に登場したオリンパスM1は画期的なカメラだった。それ以前の35ミリ一眼レフの常識を完全に超越していた。

1971年にオリンパスが登場させたエムワンは画期的なカメラであった。それまでの普通の35ミリ一眼レフカメラよりもワンサイズ小さかったのである。いや実際には2サイズ小さかったかもしれない。当時私はカメラアートと言うカメラ雑誌の英語版の連載で作品を掲載していたので新しく登場したばかりのオリンパスの新型一眼レフを手にすることができた。カメラアートと言うのは東京の京橋の角にある羊羹ビルであって、編集長の轟さんと言う人は信州の出身で山歩きが好きだからエレベーターのない8階建てなどでも全

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7 オリンパスのomシリーズはその後にどんどん進化していった。オーエムツーでダイレクト速攻と言う離れ業を演じたのである。さらに機械式の堅牢なomスリー、そしてさらに当時としてはかなり複雑なメーターシステムを持つom4だった。

それまで全く市場がなかったオリンパスの一眼レフシリーズはオリンパス以外のカメラメーカーとは全く違う方法でどんどん進化していったように思える。最初のモデルから自動露出の大M2になった時は世間がびっくりしたのである。これはダイレクト速攻と言うものであってフィルム面に今降り注いでいる光の量をそのまま測るのである。そういうテクニックのautomaticなカメラと言うのはそれまで存在しなかったので写真愛好家はみんなびっくりしたのであった。

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8 ミスターオリンパスことを米谷さんとフォトキナで出会った。オリンパスXAが登場する年だった

最近のカメラメーカーがつまらなくなっている最大の理由はそのメーカーを代表するようなスーパースター的なカメラ開発者がいなくなったことである。オリンパスのスーパースターといえば米谷さんである。世界的に知られたカメラ設計者と言い直しても良い。米谷さんはどちらかと言うと小柄なスリムな紳士であるのだが彼がオリンパスに入社した直後に設計したのが有名なオリンパスペンであった。そのことはスーパーノートの他のセクションで書こうと思う。

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9 ハーフサイズのフイルムカメラオリンパスペンの事は忘れない。

オリンパスペンはあまりにも有名である。ミスターオリンパスこと米谷さんが設計したと言う神話になっているが実際問題としてハーフフレームのサイズのカメラと言うのは100年前から存在したのである。1番有名なハーフフレームのカメラはアメリカ製のツーリストマルチプルと言うやつであってこれは50フィートのロングロールのフイルムを装填する。これ1本で750枚ほどのハーフフレームの撮影ができる。だからツーリストマルチプルの広告ではあなたの旅行の1つの公開に十分な量のフィルムを提供しますと言うこ

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10 戦後の第1期の2眼レフブームの中でオリンパスフレックスの仕上げは抜群に素晴らしかった。まさに精密機械の手触りなのである。

戦後になって2眼レフカメラブームが起きたのはその製造が35ミリのフォーカルプレーンのカメラに比べると簡単であると言うことがその理由であったらしい。カメラ本体を作ってしまって後はレンズ付きのシャッターをどっかから仕入れてくれば良いのである。それを日本のカメラ評論家は非常にシニカルな言い方をしてる4畳半メーカーと呼んでいたのであった。

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11 私のオリンパスカメラ。私の高千穂光学。

戦前の1930年代に設立された長い歴史を持つ高千穂オプティカルカンパニーがそのカメラ関係の活動を停止して他の会社に活動を譲ってしまうのは誠に残念である。つい先週94年の歴史を誇ったアサヒカメラが廃刊になってがっかりしていたところにまた追い打ちをかけられるようなダメージである。

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