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北朝鮮の自動車 メルセデス・ベンツのコピーについて


北朝鮮の自動車産業は周辺国と比較すると貧弱かつ初歩的と言わざるをえない。他国に頼らず独力で産業を推進させる「自力更生」のスローガンを掲げるが、現状は特に中国車を輸入してセミノックダウン生産、あるいはエンブレムを付け替えて販売しているだけだ。以前までは韓国との南北合弁会社である平和(ピョンファ)自動車工場で中国車、更には韓国車やイタリア車の一部を生産していたが、2012年に経営元の統一教会が自動車事業から撤去したことでそれは潰えた。
その代わり平和自動車工場は2013年から中国車を生産するようになり、更に中国との合弁会社が他にもいくつも立ち上がった。どこも北朝鮮に自動車を輸入する訳にはいかない中、中国くらいしか頼みの綱は無い。

そんな北朝鮮で数少ないドイツ車がある。海外から密輸されたメルセデス・ベンツがそれである。主に最高指導者やお偉いさんが乗ることが基本で、金正恩の乗る黒塗りのメルセデス・ベンツSクラスは防弾仕様とも言われる。
しかし今回触れるのは約20年~30年前に密かにコピーされた古いベンツの話である。以下、少ない情報から見ていく。

1.平壌4.10

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(画像:ChineseCarHistory.com)

1989年3月に平壌を訪れたEckart DegeとMeinrad Freiherr Von Oweがホテルの裏口に停められた一台のベンツを撮影した。それがこの黄色いベンツW201のコピー、平壌4.10だ。1987年~1988年に製造と推測される。後方から撮影された写真もあり、周囲に警備員らしき人物がいる。リアには平壌4.10というエンブレムが付けられていた。

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(画像:ChineseCarHistory.com)

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(画像:ChineseCarHistory.com)

フロントに付けられている炎のようなエンブレムを除けば、見た目は普通のベンツだ。車名の4.10とは、金日成が「南と同じように車を造るべき」と宣言した4月10日に由来するというが、後述の経緯では発言の具体的な日時については不明。

2.更正88

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(画像:ChineseCarHistory.com)

平壌4.10とは別のベンツW201のコピーである。1992年4月、平壌の三大革命展示館を訪れたゲルハルト・ヨーレンというドイツ人写真家が撮影した赤いこのベンツは1995年5月にも日本人観光客に目撃された。後者によれば青いベンツで、元々は赤い更正88を青に再塗装したと考えられていたが、1996年に撮影された写真の発見で青と赤の二種類が同じ場所に展示されていたことが判明した。フロントにあるメルセデス・ベンツのシンボルであるスリー・ポインテッド・スターは星型のものに付け替えられている。

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(画像:4travel.jp)

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インドの著名写真家、Jay Urallが1996年に撮影した更正88(ChineseCarHistory.com)

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更正88の説明。一番下には「11月(1月?)26日工場」と読める一文がある(画像:ChineseCarHistory.com)

3.白頭山

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(画像:ChineseCarHistory.com)

1990年代初頭にDer Sternというドイツの雑誌に掲載された粗悪な白黒コピー(雑誌側に問い合わせても元の写真の出所は不明らしい)に写ったベンツが白頭山(ペクトサン)とされる。フロントには菱形エンブレムが付いている。白頭山とは朝鮮の聖山のこと。 

金日成の嫉妬から生まれたベンツ

かつて金日成父子の通訳を勤めた高英煥の著書「平壌25時─北朝鮮亡命高官の告白─」によれば、このようなベンツが生まれた背景には、金日成の発言が始まりであるという。

1985年、赤十字会談参加のため北朝鮮代表団がソウルを訪れ、韓国の乗用車に乗った。代表団はこのことも金日成に報告した。報告を聞いた金日成は、

「どうして南朝鮮が我々より先に乗用車を作って乗り回しているのか、我慢がならない。西ドイツからモデルを輸入するから、民族的自尊心にかけて西ドイツのベンツのような車を作れ」(要約)

と、怒りをあらわにしながら直々に命令した。まずモデルになる車の選定が始まり、最終的に西ドイツが生産を開始したベンツ190(W201型)に決定した。当初は政務院の課題であったが、高級車の生産能力がなかったため、党中央委員会の第二経済委員会に課題が委ねられた。第二経済委員会は軍需物資生産を管轄する部署であり、そこでベンツを生産する運びになった。何台ものベンツを完全に分解し、何十もの軍需工場が工場あたり数百個の部品を生産することになった。

これには約3年間かかり、ようやく10台のベンツが完成した。このベンツは1988年9月の建国40周年記念に際して開催された社会主義成果展覧会に出品された。見た目はベンツだったが、それは10m離れて見た場合であり、近くで見るとボディ表面は凸凹していた。また、平壌近辺で半年間に渡り試運転が行われたが、非常に故障が多く常に5台ほど牽引車がついて回ったという。結局、1989年にはお蔵入りに終わった。

これが、「平壌25時」に記されたベンツコピーの誕生背景と顛末である。1988年に出品となれば更正88という名称もここから取られた可能性が高いし、複数の軍需工場で部品を生産したという記述と三種類ものベンツを合わせて考えれば、少なくとも三ヶ所の工場でベンツが完成した可能性がある。事実、三種類ともエンブレムが異なる上に現在では確認されていないワンオフらしきデザインであることが分かる。

失敗に終わったというが、当時の北朝鮮の乗用車を生産するノウハウや能力を考えれば至極当然である。ボディ表面が劣悪な状態なのは、綺麗に成形しないで手作業で粗雑に叩いて仕上げたからだろう。故障ばかりなのも、治金技術が未熟であり耐久性が必要なエンジンのベアリングやピストンなど各部品が脆弱なせいで起きていたかもしれない。金日成が発した我が儘のおかげで側近と労働者がこのような無茶に付き合わされたのは気の毒としか言いようがない。このベンツの粗悪なコピーを最後に、北朝鮮は乗用車・高級車のコピーを完全に諦めている。

なお、実はこれよりも約10年前に似たような試みが行われていた。以下記事を参照


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オリジナルの190は数多くが輸入され、今日も健在である(画像:KCTV)

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(画像:wikipedia 勝利自動車工場の日本語版wikipediaにて勝利自動車工場の白頭山と誤って紹介されている。よく見るとベンツのスリー・ポインテッド・スターがある)


参考文献

平壌25時─北朝鮮亡命高官の告白─ 高英煥 池田菊敏・訳(徳間文庫)




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