![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/131804943/rectangle_large_type_2_a0f9b33ef45ef6117f210ac0715d1196.jpeg?width=1200)
銚子に残る江戸時代の建物 ~旧西廣家住宅の倉庫~
銚子は江戸時代から栄えていた街ですが,実は歴史的な建築物がほとんど残っていません。
その銚子に貴重な江戸時代の建築物として今も残っているのが,この2つの倉庫です。
![](https://assets.st-note.com/img/1708676464815-At8miM8kSg.jpg?width=1200)
江戸時代末期の慶応年間(1865~1868年)に建てられ,漁網の収納に使われていました。
倉庫の屋根には「黒生(くろはい)瓦」が使われています。現在は作られていませんが,銚子の黒生で取れる黒い粘土で作られた,評価の高い瓦です。
この倉庫は旧西廣(にしびろ)家住宅のもので,主屋や缶詰工場などとともに2018(平成30)年に国の登録有形文化財(文化財保護法57条)になりました。
西廣家は江戸時代末期に紀州(和歌山)から銚子に移り住み,2代目・次郎吉(じろきち)が漁業を始めました。今も銚子を代表する船主のひとつです。
西廣家の経済力の高さは,主屋に使われている高価な建材などから伺い知ることができます。
![](https://assets.st-note.com/img/1708676550638-UnkpVQlwa7.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1708676587419-FzjbgmdGHm.jpg?width=1200)
しかしその主屋は,明治に入ってから建てられたもので,江戸時代の建築物ではありません(1877(明治10)年築,1937(昭和12)年増築)。
その主屋の離れにある2つの倉庫のほうが,江戸時代のものなのです。
銚子に歴史的な建築物がほとんど残っていないのは,終戦直前の3度の大空襲が理由です。
1945(昭和20)年3月9日の夜,東京大空襲によって,非常に多数の市民が犠牲となりました。そしてその東京とほぼ同じ時間に,銚子も大空襲の被害を受けたのです。
この頃にB29の標的となっていたのは,東京・名古屋・神戸などの大都市が中心でした。人口6万人程度の銚子がこの時期に標的にされた理由を,当時の市民は「B29が余った爆弾を帰りに落としたのだ」と考えました。今でもそのように言う人もいます。
しかし銚子市史は,そうではなく「周到に計画された空襲」だったとしています。
3月9,10日の空襲に関して最も理解にしくい点は,米軍がなぜ新しい戦略爆撃の最初の目標に,銚子市のような地方小都市を選んだのかということである。当時市民は,銚子市は東京空襲のB29の通路になっていたので,余った爆弾を帰りに落としたまでのことであると考えていた。しかし米軍資料を見詰めていると,そのような安易なものとは決して思われない。やはり周到に計画された空襲とみられる。…あえて推理すれば,首都と地方小都市を同時に攻撃することによって,今後のB29の空襲は,規模の大小を問わず日本の都市という都市を,しらみつぶしに焼きつくすぞという意志を示したものであったのだろうか。それとも近い将来に九十九里浜上陸作戦を展開する上で,銚子が東京攻撃部隊の右側面の障害になるおそれがあるとみて,ここを日本防衛軍の有力基地とさせないために,早い時期に徹底的にたたいておこうと考えたのであろうか。
さらに7月19日から20日にかけての夜間,銚子は二度目の大空襲を受けました。この頃には大都市は全滅に近い状態になっており,米軍の攻撃目標は中小都市に向けられていました。この空襲で壊滅的な打撃を受けた銚子市は,一面が焼け野原になりました(銚子市役所企画調整部市史編さん室「市民の記録 銚子空襲」13頁)。
そして,三度目の大空襲が8月1日から2日にかけてありました。
旧西廣家住宅のある川口町1丁目は,それらの大空襲の被害を奇跡的に免れていたのです。
旧西廣家住宅には,工場として使われていた大きな建物が,主屋の隣にあります。
![](https://assets.st-note.com/img/1708676802058-C6mERrHmbx.jpg?width=1200)
1935(昭和10)年に建てられたこの工場では,当初は鰹節が作られていました。その後,軍隊の食料として缶詰の需要が増え,いわしの缶詰が作られるようになりました。
ところが,戦争が進んで鉄が不足し,缶自体の生産ができなくなったため,工場では缶に代わる陶製の容器を用いようとしました。
旧西廣家住宅には「防衛食」と書かれた陶器の破片が残っています。
もっとも,銚子市史に「幸か不幸か,陶製容器の罐詰が生まれないうちに戦争が終わった」と記されているので,実際には製品にならなかったようです(「続銚子市史Ⅰ昭和前期」512頁)。
![](https://assets.st-note.com/img/1708676756965-wHp1DkjvK5.jpg?width=1200)
戦争は,一人ひとりの尊い命と人生を奪い,そして,地域にとって大切な歴史的財産をも奪います。
毎日流れる世界の戦争のニュースと,銚子に奇跡的に残るこの江戸時代の倉庫を通して,それを改めて実感しています。
旧西廣家住宅は毎月第2・第4日曜日に内部が公開されていて,ガイドの方に案内していただけます。公開日以外でも外観を見ることは可能です。
倉庫は主屋の離れにありますが,そこに説明の書かれた案内板なども特にありません。
銚子で貴重な江戸時代の建物であるにもかかわらず,そうやって静かに佇んでいる姿も,私のお気に入りです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?