銚子に残る江戸時代の建物 ~旧西廣家住宅の倉庫~
銚子は江戸時代から栄えていた街ですが,実は歴史的な建築物がほとんど残っていません。
その銚子に貴重な江戸時代の建築物として今も残っているのが,この2つの倉庫です。
江戸時代末期の慶応年間(1865~1868年)に建てられ,漁網の収納に使われていました。
倉庫の屋根には「黒生(くろはい)瓦」が使われています。現在は作られていませんが,銚子の黒生で取れる黒い粘土で作られた,評価の高い瓦です。
この倉庫は旧西廣(にしびろ)家住宅のもので,主屋や缶詰工場などとともに2018(平成30)年に国の登録有形文化財(文化財保護法57条)になりました。
西廣家は江戸時代末期に紀州(和歌山)から銚子に移り住み,2代目・次郎吉(じろきち)が漁業を始めました。今も銚子を代表する船主のひとつです。
西廣家の経済力の高さは,主屋に使われている高価な建材などから伺い知ることができます。
しかしその主屋は,明治に入ってから建てられたもので,江戸時代の建築物ではありません(1877(明治10)年築,1937(昭和12)年増築)。
その主屋の離れにある2つの倉庫のほうが,江戸時代のものなのです。
銚子に歴史的な建築物がほとんど残っていないのは,終戦直前の3度の大空襲が理由です。
1945(昭和20)年3月9日の夜,東京大空襲によって,非常に多数の市民が犠牲となりました。そしてその東京とほぼ同じ時間に,銚子も大空襲の被害を受けたのです。
この頃にB29の標的となっていたのは,東京・名古屋・神戸などの大都市が中心でした。人口6万人程度の銚子がこの時期に標的にされた理由を,当時の市民は「B29が余った爆弾を帰りに落としたのだ」と考えました。今でもそのように言う人もいます。
しかし銚子市史は,そうではなく「周到に計画された空襲」だったとしています。
さらに7月19日から20日にかけての夜間,銚子は二度目の大空襲を受けました。この頃には大都市は全滅に近い状態になっており,米軍の攻撃目標は中小都市に向けられていました。この空襲で壊滅的な打撃を受けた銚子市は,一面が焼け野原になりました(銚子市役所企画調整部市史編さん室「市民の記録 銚子空襲」13頁)。
そして,三度目の大空襲が8月1日から2日にかけてありました。
旧西廣家住宅のある川口町1丁目は,それらの大空襲の被害を奇跡的に免れていたのです。
旧西廣家住宅には,工場として使われていた大きな建物が,主屋の隣にあります。
1935(昭和10)年に建てられたこの工場では,当初は鰹節が作られていました。その後,軍隊の食料として缶詰の需要が増え,いわしの缶詰が作られるようになりました。
ところが,戦争が進んで鉄が不足し,缶自体の生産ができなくなったため,工場では缶に代わる陶製の容器を用いようとしました。
旧西廣家住宅には「防衛食」と書かれた陶器の破片が残っています。
もっとも,銚子市史に「幸か不幸か,陶製容器の罐詰が生まれないうちに戦争が終わった」と記されているので,実際には製品にならなかったようです(「続銚子市史Ⅰ昭和前期」512頁)。
戦争は,一人ひとりの尊い命と人生を奪い,そして,地域にとって大切な歴史的財産をも奪います。
毎日流れる世界の戦争のニュースと,銚子に奇跡的に残るこの江戸時代の倉庫を通して,それを改めて実感しています。
旧西廣家住宅は毎月第2・第4日曜日に内部が公開されていて,ガイドの方に案内していただけます。公開日以外でも外観を見ることは可能です。
倉庫は主屋の離れにありますが,そこに説明の書かれた案内板なども特にありません。
銚子で貴重な江戸時代の建物であるにもかかわらず,そうやって静かに佇んでいる姿も,私のお気に入りです。
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