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銚子と山口,国木田独歩と吉田松陰

 銚子生まれ山口育ちの小説家・詩人,国木田独歩
 明治時代の自然主義文学の先駆者で,「山林に自由存す」の詩や,随筆「武蔵野」が特に有名です。

国木田独歩

 独歩は1871(明治4)年,銚子に生まれました。

 独歩の父・国木田専八は,播州龍野(現兵庫県)の人です。御船役人として乗っていた龍野藩の船が銚子沖で遭難し,救助された専八は,銚子の旅籠・吉野屋で療養していました。そしてその旅籠に勤めていた淡路まんとの間に生まれたのが,独歩です(本名は亀吉,後に哲夫)。
 専八は龍野に妻と子どもがいたため,独歩の戸籍は,母・まんと別の男性との間の子として作られました。

 独歩が銚子で暮らしていたのは,わずか3歳までです。

 1874(明治7)年,父は龍野の妻子と別れ,まんと独歩を銚子から東京に呼び寄せました。
 その後,父が裁判所の職員となり,その転勤に伴って一家は1876(明治9)年から約10年間,主に山口県内を転々としました(一時期は広島にもいました)。独歩が5歳から16歳までの頃です。

 このような環境が彼を自然の子としてはぐくんでいったのである。…銚子は生まれ故郷ではあるが,ものごころつく前にそこを離れている。銚子も自然美に恵まれた土地である。太平洋の荒波と利根川の川風,彼が好きそうな土地である。しかし,その自然の美しさを見いだすにはあまりに彼は小さかった。この時期になり初めて自分の目でものを見,自然美を心に焼き付け得る年齢になり,高遠にして清新なる詩想が彼の心に植え付けられたのである。

福田清人・本多浩「国木田独歩」15頁

 
 独歩はその後東京の学校に進学しますが,1891(明治24)年,20歳のときに,父母のいる山口県熊毛郡麻郷村(現:田布施(たぶせ)町)に戻りました(林芙美夫「田布施時代の国木田独歩」4頁)。

 また,翌年1892(明治25)年から2年間を,田布施の隣の柳井(やない)で暮らし,独歩はこの柳井を「国許(くにもと)」と呼んでいました(柳井市・柳井市教育委員会「柳井地方と国木田独歩」)。
 柳井には,独歩が暮らしていた家が今も保存されています。

柳井市にある国木田独歩旧宅


 独歩がかつて暮らした田布施には,だるま型の石碑があります。
 その石碑に刻まれているのは,詩「山林に自由存す」の最後の一節です。
 この詩は,1897(明治30)年,独歩が東京・渋谷で暮らしていた頃に発表されたものです。

田布施町の国木田独歩の詩碑

 (独歩の死後50年の経過により著作権保護期間は終了しています)

山林に自由存す
われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ
嗚呼山林に自由存す
いかなればわれ山林をみすてし

あくがれて虚栄の途にのぼりしより
十年の月日塵のうちに過ぎぬ
ふりさけ見れば自由の里は
すでに雲山千里の外にある心地す

眥(まなじり)を決して天外を望めば
をちかたの高峰の雪の朝日影
嗚呼山林に自由存す
われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

なつかしきわが故郷は何処(いずこ)ぞや
彼処(かしこ)にわれは山林の児なりき
顧みれば千里江山
自由の郷は雲底に没せんとす

「山林に自由存す」

 山林にこそ真の自由があり,その自然の児になりたいと願いながら,東京で虚栄の途にのぼり,妻にも逃げられた独歩は,東京の片隅・渋谷で「なつかしきわが故郷は何処ぞや」と,故郷を失った心情をうたったのでした。

 ちなみに,このとき独歩が暮らしていた渋谷の家は,現在のNHKホールや渋谷区役所のすぐ近くにありました。

渋谷にある国木田独歩住居跡。奥に見えるのがNHKホール

 今では全くの都会ですが,明治30年代はその辺りは郊外で,独歩の家の向こうには武蔵野の雑木林や野がはるかに広がっていました(赤坂憲雄「武蔵野をよむ」)。
 1901(明治34)年発表の随筆「武蔵野」は,独歩が妻と共に散策し,その妻と別れた後も一人で歩いた,その自然の中から生まれた作品です。


 また,以前別の記事で紹介したように,竹久夢二の「宵待草」は夢二が銚子で出会った女性を歌ったものですが,夢二が女性と再会し別れを予感させる日の日記には,銚子生まれの独歩の詩を絡めて,こう記されています。

【1911(明治44)年1月8日】
 何かの言葉に林間に自由ありといふことがあつたつけ,ほんとだ/森林に自由あり/女,林の方へゆく,男したがふ/手をとる/もはやいつも別れるとこへ来る/--もうこれでお別れになるかもしれない

品川洋子「『宵待草』ノート 竹久夢二と大正リベラルズ」37頁


 「山林に自由存す」の詩碑は,独歩が生まれた銚子にもあります。
 縦1m,横2.2mという巨大な自然石が横たわった,一風変わった詩碑です。
 海鹿島の海を見下ろす台地上に建立されています。

銚子・海鹿島にある巨大な国木田独歩の詩碑


 また,銚子駅前のロータリーには,2008(平成20)年に建立された国木田独歩100年忌記念碑もあります。

銚子駅前のロータリーにある国木田独歩100年忌記念碑

 独歩は,東京で暮らしている間に,生まれ故郷である銚子を何度も訪れました(銚子市史869頁)。
 そして,36歳の若さで亡くなる前,銚子を想って「夏の波は高く,冬の波は低し。土用七月の波,これを犬吠岬に見る。その壮観未だ忘るゝ能はず」と口述し,知人に筆記してもらいました。
 その「病牀録」の言葉が,この記念碑に刻まれています。


 山口で育った独歩は,山口の偉人・吉田松陰に強い興味関心を持っていました。
 松陰が松下村塾を開いて多くの逸材を輩出したのにならい,独歩も田布施に私塾「波野英学塾」を開きました。
 もっとも,独歩の理想は生徒には理解できず,村の人々にも単なる空念仏で終わってしまい,波野英学塾は約5ヶ月しか続きませんでした(前掲福田他37頁)。

田布施駅の裏にある波野英学塾跡


 銚子生まれの独歩が尊敬していた,吉田松陰。
 あまり知られていませんが,その吉田松陰は銚子に来たことがあります。

吉田松陰

 松陰は,1851(嘉永4)年12月14日から140日間にわたって東北を旅しました。
 この旅は「脱藩行」と呼ばれています。
 ロシアの南下政策の脅威を感じていた松陰は,北辺の守りがどうなっているのかを自分の目で確かめたかったのですが,江戸にある長州藩邸に東北旅行の願書を出してもなかなか許可が下りなかったため,脱藩して出発してしまったのです(脱藩は立派な犯罪でした)。

 松陰は江戸を出発したあと水戸に行き,南下して利根川を船で下り,銚子に1852(嘉永5)年1月8日にやってきました。
 松陰はここで漢詩を詠んでおり,銚子市史は「この時の詩は,極東銚子の無防備を慨嘆悲憤慷慨したもので,憂国の至言外に溢れ,亦もって当時の国情騒然たる折の銚子のさまを偲ぶに足る」と説明しています(462頁)。
 この漢文の書下し文と訳は,ウェブサイト「大船庵」が丁寧に解説しています。 

巨江汨汨流入海 商船幾隻銜尾泊
春風吹送糸竹声 粉壁紅楼自成郭
吾来添纜壬子年 倚檣一望天地廓
遠帆如鳥近帆牛 潮去潮来煙漠漠
欧羅亜墨知何処 決眦東南情懐悪
眉山之老骨已朽 何人復有審敵作
仄聞身毒与満清 宴安或被他人掠
杞人有憂豈得已 閑却袖中綏邊略
強開樽酒発浩歌 滄溟如墨天日落

 「吉田松陰曾遊之地碑」は,川口神社の石段を登る途中の三の鳥居の左側に建立されています。

川口神社にある吉田松陰曾遊之地碑

 松陰の「東北遊日記」には,松陰が銚子のどこに行ったのか,川口神社に行ったのかまでは,明記されていません。
 (国立国会図書館デジタルコレクション)
 https://dl.ndl.go.jp/pid/763418/1/13
 しかし,海原徹教授は「川口神社を目指したことは間違いない」としています。

 正月八日の「日記」には,「長塚・本城を経て,海及び刀根川の海に注ぐ処を観る」とあるのみで,川口神社の境内に立ったとはいっていないが,利根川が太平洋に注ぐ河口付近,すなわち銚子港の全景を眼下に収め,異船防衛にいかに対処すべきかを詳しく見ようとすれば,高台に位置する川口神社に勝る地はない。銚子に入った松陰らがまっすぐこの地をめざしたことは,おそらく間違いない。

海原徹「松陰の歩いた道 旅の記念碑を訪ねて」130頁

 川口神社の碑は,終戦前の1944(昭和19)年に建てられました。
 戦後に占領軍を恐れた地元の人々は,この碑文のうち「欧羅亜墨」(ヨーロッパとアメリカ)と「満清」の文字を打滅しましたが,「身毒」はインドのことと気づかなかったようで,そのままになっています(銚子市史462頁)。



 銚子と山口を繋ぐ二人の足跡を,皆さんもぜひ巡ってみてください。



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