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竹久夢二「宵待草」と海鹿島

まてど暮せど来ぬひとを
  宵待草のやるせなさ
    こよひは月も出ぬさうな

竹久夢二・宵待草

 大正ロマンの叙情画家・竹久夢二宵待草(よいまちぐさ)
 この詩にメロディがつけられた歌は,大正時代の誰もが知る有名な曲でした。

 そして,この宵待草の舞台が銚子の海鹿島(あしかじま)だったのが明らかになったのは,夢二の死後のことでした。

 山下アレンジ版もぜひお聴き下さい。


 宵待草という名前は,マツヨイグサの「待つ」と「宵」を入れ替えた,夢二の造語です。

 マツヨイグサは,初夏~晩秋,黄色い4つの花びらを夕方に咲かせ,夜のあいだ咲き続けて朝にはしぼみ,その一日だけで花を終えます。

マツヨイグサ


 竹久夢二が愛した女性は,たまき(岸他万喜),彦乃(笠井彦乃),お葉(佐々木カ子ヨ)の3人が,一般的には知られています。
 しかし,夢二が宵待草で思いを詠んだ女性はそのうちの誰でもなく,カタ(長谷川賢)という女性でした。

 夢二は,たまきとは,1909(明治42)年に離婚しながら,その後も同居・別居を繰り返す関係が続いていました。
 たまきと離婚した翌年の1910(明治43)年8月,26歳の夢二は,たまきと長男(2歳)の3人で,銚子の海鹿島を訪れました。
 そしてそこで,海岸付近を散歩していた19歳のカタと出会います。
 夢二が滞在していた旅館の隣がカタの実家で,カタは夏休みの帰省中でした。
 わずか10日間の恋愛でしたが,その後も手紙のやりとりが続きます。
 そして,2人の関係を知ったカタの父は,カタに他の人との結婚を急がせました。

 翌年の1911(明治44)年,再び銚子を訪れた夢二は,カタとは会えませんでした。
 その失恋から生まれたのが,宵待草です。

 失恋直後から次のような変遷を経て,現在の宵待草が完成しました。

■ 1911(明治44)年10月

日はひねもす夜は夜もすがら通路に
まてど暮らせど待てどくらせど

「桜さく国 白風の巻」

■ 1912(明治45)年6月

遣る瀬ない
釣鐘草の夕の歌が
あれあれ 風に吹かれて来る。
まてどくらせど来ぬ人を
宵待草の心もとなさ
「おもふまいとは思へども」
われとしもなきため涙
今宵は月も出ぬさうな。

雑誌「少女」

■ 1913(大正2)年11月

まてど暮せど来ぬひとを
宵待草のやるせなさ
こよひは月も出ぬさうな

「どんたく」


 宵待草の発生地やヒロインについては,諸説が乱れ飛んでいました。

 銚子の海鹿島でのカタとの出会いだったことが突き止められたのは,夢二が亡くなってから30年以上も経った,1967(昭和42)年のことでした。
 夢二研究の第一人者である長田幹雄氏が,夢二の書簡や日記などを克明に調べた結果,判明したのです。


 カタは音楽家と結婚し,1男4女を育てて平穏な生活を送り,1967(昭和42)年に亡くなりました。
 カタの生前(60歳頃),カタの長男の妻が「夫に聞くと夢二さんを知っているそうですね。どんな人でしたか」と尋ねると,カタは思わず顔をほころばせて「そうね,今でいえば,ま,不良ね」といたずらっぽく答えたそうです(永澤謹吾「夢二の名作『宵待草』と海鹿島」,「銚子の歴史と伝統」54頁)。


 宵待草は恋愛の詩ですが,もう一つ別の意味が込められているという重要な指摘があります。

 宵待草の原型が作られた1911(明治44)年は,大逆事件で幸徳秋水らが処刑された年でした。
 大逆事件は,明治天皇の殺害を計画したとして,皇族に対して危害を加える行為を死刑と定める大逆罪(旧刑法116条,1947(昭和22)年改正前の刑法73条)により幸徳秋水ら24名が死刑判決を言い渡され,うち12名の死刑が執行された事件です。
 政府が社会主義者・無政府主義者を弾圧するために事件をでっちあげ,非常にずさんな裁判で死刑判決が言い渡されました。この後,社会主義運動は「冬の時代」を迎えます。
 日本弁護士連合会:大逆事件死刑執行100年の慰霊祭に当たっての会長談話 (nichibenren.or.jp)


 夢二は若い頃に社会主義運動に近づいた時期があり,大逆事件でも関連して取り調べを受け,2日間身柄拘束されています。
 1911(明治44)年の夢二の日記にも,刑事に尾行されていることを窺わせる記述が出てきます(「秋水一派の公判があるとやらで僕にも犬がついて歩く。…スリのよふな奴がついてくるので,馬鹿らしくてたまらない」)。


 品川洋子「『宵待草』ノート-竹久夢二と大正リベラルズ-」は,宵待草の時代背景と夢二の足跡を丁寧に紐解いて,次のように記しています。

 これ(注:宵待草)を,恋愛の詩としたなら,父権が強く身分のある社会では,女性(弱者)の恋はままならず,悲しい結果になりがちだ,という嘆きとも諦めともつかないものが漂ってくる。もしも,さらに読み込むのなら,個人の幸福こそ実現されなくてはならないものなのに,大義名分や国益のために犠牲にされると,その人はどんなに待っても決してもう還らないのだ,という悟りが響いてくる。どちらにしても,むしろありふれた抒情のうちにあるべき人の道を示唆する,日本のリベラリズムの歌であることには違いないであろう。大正文化のうちの,もっともとらえにくい自由主義を,夢二は体現した詩人だった。

品川洋子「『宵待草』ノート-竹久夢二と大正リベラルズ-」82頁


 宵待草の舞台が判明した4年後の1971(昭和46)年,海鹿島に詩碑が建立されました。
 銚子にはあちらこちらにたくさんの詩碑・歌碑がありますが,これらのレプリカを集めたふれあい広場が,地球の丸く見える丘展望館のすぐ下にあります。
 宵待草の詩碑は,この広場でも見ることができます。


 自らを流人(るにん),愁人(しゅうじん),行人(こうじん),ストレンジャーと呼んでいた,旅人・夢二。
 その夢二の足跡が,今もこうしてしっかりと銚子に残っています。

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