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毛沢東(ジョナサン・スペンス)

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ジョナサン・スペンス 著
小泉朝子 訳
岩波書店2002

本書はぼくにとって、いささか消化不良感が残るものとなった。それは著者の力量が及ばないからではない。ジョナサン・スペンスは英語圏を代表する中国学者の一人であり、歴史学の著作を一般向けのベストセラーに仕立て上げるほどの筆力の持ち主でもある。本書も実に読みやすく、毛沢東の脚色不要な波乱万丈な人生もあって、史実を大まか把握しているぼくでさえスリル感たっぷりに読むことができた。しかし、ある意味で痛快と言えるその読後感は、時間が経つとともに消化不良に姿を変えた。理由は簡単、あまりにもすんなりと読めたからだ。

大学者らしく、著者の論点は終始一貫ブレることがなかった。序文で「毛沢東が一番心地良さそうに見えるのは、秩序と正反対の無秩序な世界、あのなぞめいた闘いの場にいたときだ」と提示しておき、そのような世界を欧米の読者にもわかるようにと、中世ヨーロッパで行われる貴族と平民の上下関係が一時的に消滅する饗宴の場である「無秩序の王様」にたとえた。そして、毛沢東が「無秩序」という本来なら期間限定の概念を中国に適用させ、どこまでもその耐用時間を引き伸ばそうとしたと指摘する。

ぼくはこの指摘にほぼ賛成し、以降各章で「無秩序」を尊ぶ毛沢東のマインドがいかに形成されたのか、重要な節目において彼がどのように「無秩序」を生み出すことに成功したのか、そうした細かい説得力に富む分析を期待していた。しかし、どうやら著者はそのようないかにも学術書らしいしかめっ面の論述をする気はさらさらない。序文での指摘は証明を待つ仮説ではなく、毛沢東の人生を理解する上での前提として使われていたのである。

原書が「ペンギン評伝双書」という英米で話題の人物伝シリーズ(本書奥付の説明より)の一冊だということを考慮すれば、このような書き方になってしまうのは致し方ないことだろう。なにしろこのシリーズには、モーツァルト、キング牧師、ナポレオン、プルーストなどなど、どう見てもまとまりに欠ける人物が登場するからだ。想定している読者はおそらく専門家向けの深い議論を期待する中国通ではなく、「毛沢東って有名だけど、なにをしたんだろう」というような人たちだ。だからこそ、そうしたライト層向けの書き方をよく心得ているジョナサン・スペンスが著者として選ばれたのだろう。

実際、著者はわかりやすさに腐心したと見える。毛沢東、周恩来、蒋介石など、世界的に有名な人物は流石に実名で登場したが、閻錫山、胡風など、中国人なら一度は聞いたことがあるけれど、世界的には無名な人たちは名前さえ出てこず、「山西省を治めていた軍閥」などと略歴を記されたのみだ。史料の選択では、決り文句のオンパレードである共産党の文書をほとんど採用せず、毛沢東の個人的な書簡や詩文を多用した。前者はどうしても歴史的な背景を把握した上で行間を読むという専門性の高い労力を要してしまい、後者なら欧米の読者でも彼の内面に迫りやすいからだろう。

こうしてできあがった毛沢東像は、著者が最初に挙げた点以外は、どれもこれも欠点だらけだ。大学にいけず、留学もできなかったためにインテリにコンプレックスを持ったややこしいジジイ、青年期から晩年まで若くて美しい女性に目がないエロ親父、息子の生死でさえもさほど関心を寄せないネグレクトの親などなど。それでも、いかにプライベートが壊滅的でも、彼には人類史上でもまれに見る人をまとめる手腕と話術、戦略的な構想を展開する視野と論理的な思考力を持ち合わせ、そして専門的な訓練を受けていないにもかかわらず連戦連勝を収める戦争の天才である。公人として傑出さと私人としての劣悪さの対比によって、ジョナサン・スペンスの描く毛沢東はたしかに生き生きとしたキャラクターとして成り立ったのである。

キャラを際立たせたことは、一般書として大成功だ。しかし、こうしてできあがったキャラは、あまりもわかりやすすぎるのである。著者が全く触れていない毛沢東の思想家としての側面、国民国家としての中国に関する哲学的構想、階級闘争への繰り返しの言及とその先にある来るべき世界の姿など、毛沢東はもっともっと複雑だ。彼を単純化させてしまっては、なぜ彼と彼が率いる共産党が中国を数十年に渡り支配できたのかということへの理解を妨げ、その結果中国を理解できなくしてしまう恐れさえある。

とはいえ、一般書にこれ以上求めるのは酷だ。「複雑さ」は毛沢東の影響を全身に浴した中国人からすれば火を見るよりも明らかな前提だが、外国人にはむしろ、この本で毛沢東という人物(あるいはキャラクター)に興味を持ってくれることを期待すべきだ。そして、興味が高じてさらに別の書物に手を伸ばしてくれることをーー。

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