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毛沢東と中国(上)(銭理群)

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銭理群 著
阿部幹雄、鈴木将久、羽根次郎、丸川哲史 訳
青土社2012

毛沢東がいなければ、ぼくは生まれていなかっただろう。

それは「毛沢東が中華人民共和国を建国させたから、今の中国人は皆そうだ」というレベルの話ではない。彼の行動、より正確にいえば1950年代後半に始まった大躍進とそれに続く全国範囲での飢饉によって、ぼくの誕生が運命づけられたのである。

ぼくの母方の祖父は、比較的裕福な暮らしをしていた地主の家に生まれた。長男だった祖父がどれだけの教育を受けていたのかは不明だが、弟の一人が建国後に地元で高校教師となったことから見れば、平均よりかなり上だったことは間違いない。そうした教育を受けたためか、戦前の中国での腐敗しきった国民党に嫌気が差した祖父は、希望をつかもうと弟とともに共産党の根拠地である延安に乗り込んだ。延安時代の共産党といえば、字が読めるだけで官僚になれるほど文官の確保に苦慮していた。一丁前の知識人だった祖父は当然重宝され、中華人民共和国建国後に中央省庁の高官にもなった。それだけのポストなら、暮らしも仕事も当然首都・北京だ。祖父の実家は中国南部にあり、やがてぼくが生まれることになる中部の省とは無縁だ。実際ぼくの母は北京市で生まれており、あのままなにも起こらなければ、母は北京で育ち、父とは、戸籍制度による移動の制限で一生出会わなかっただろう。

そんな祖父がぼくの故郷に赴任したのは、飢饉によって餓死寸前になった農民たちが暴動を起こしたため、治安維持の責任者として派遣されたからだ。残念ながら祖父は30年以上前に他界しており、彼から当時の詳細を直接聞くことは叶わないが、母が言うには「おじいちゃんは穀物の備蓄倉庫にやってきて、『食べ物はあるのか』と聞いた。倉庫の管理人が『ある』と答えると、『だったら飢えている農民に早く給付しろ』と命令した。管理人は『しかし、これは国に納めるものです…』と言うと、おじいちゃんは『いいから早く出せ。責任はオレが取る!』と言ったの。そうして食べ物が配られ、それを受け取った農民たちはおじいちゃんの前で土下座し、泣きながら額ずいていたわ。」

このエピソードだけを読んでも、大躍進とそれに続く飢饉の歴史に詳しくない方には、なぜこんな水戸黄門的やり取りが起こなわれたのか想像できないだろう。1959年から始まったあの飢饉で、集計によっては3000万人以上が変死したとも言われており、その大半が農村部での餓死だ。なぜこれほどの飢饉が起きているのか。なぜ穀物を栽培しているはずの農民たちが最も飢えていたのか。なぜ農民が飢えているにも関わらず、倉庫には穀物が備蓄されていたのか。なぜ暴動が起きると高官が派遣され、一時的ではあるが救済が行われたのか。

それらの答えは、この本に直接書かれているわけではないが、毛沢東の行動や思考、当時の共産党の政策に関する著者・銭理群の分析を読んでいけば、実に理路整然とし、「なるべくしてそうなった」ということがわかる。「毛沢東の農村社会主義実験は、農民を基本的な原動力としながら、事実上農民の利益を損ない続けた」というのが著者の見方だ。また、著者が何度も引用した著名な経済学者・顧準の言葉を借りれば「(大躍進や人民公社は)国家と農民の軋轢であり、農民を犠牲にして国家の目標を達成しようとした」のである。

国家の目標とは、大躍進にあたり毛沢東が提唱した「英国を追い抜け、米国を追い越せ」というスローガンである。そのスローガンのもとで無謀な鉄鋼生産高が必達とされたため、多くの農民がわけもわからずに製鉄作業へと動員された。さらに、社会主義の優越性のプロパガンダと、自身の出世のために成績を必要以上に誇示しようと、農村の幹部たちは収穫量を実際の数倍、数十倍、数百倍と虚偽報告した。それにより、国庫に納める穀物の量も比例して増えてしまい、農村には食べ物が残らなくなってしまったのである。この一連の狂気じみた行動と、大量餓死の惨状を招いた最大の責任者は、間違いなく当時の最高責任者の毛沢東だが、多くの官僚、国民が良心と理性を殺し、毛沢東の命令に従って行動していたのも事実だ。

なぜ一個人がこれだけの権勢を持つことができ、国全体を混乱を陥れてもなお暴走を続けることができたのか。この点に関しては、毛沢東個人の資質に答えを求めるもの、共産党の指導体制によるもの、中国人のメンタリティを俎上に乗せるものなど、先行研究をいくらでも挙げることができる。おそらくどれもある程度正しく、またある程度偏った意見なのだろう。なぜなら、原因の究明を使命としないこの本の記述からわかるように、あまりにも多種多様な要素が複雑に絡み合っており、どれか一つをスケープ・ゴートとして祭り上げることが不可能だからだ。惨劇とその影響を思考し理解するには、後代の論者や同時代の外部の観察者が書いた一見冷静な論評を読むのではなく、本書のようにあの時代を肌で感じた人たちの生の声を拾い上げていくしかないのである。

ところで、赴任したぼくの祖父は、そのまま現地に残ることになり、図らずも母が大学で父と出会うための下地を整えた。その意味で、ぼくも当時生きているすべての中国人と同様に、毛沢東が引き起こした惨劇によって運命を大きく左右されたことになる。毛沢東の影響力かくや、まだ生まれていない人間にも及ぶのである。そしてそれは、おそらくぼくだけではなく、またこの世に生まれたという事実だけにとどまるものでもない。より多くの人は、思考回路、判断基準、人生観を毛沢東に影響されてしまい、それを著者は「毛沢東思想」よりもさらに大きな精神的な影響して「毛沢東文化」と呼ぶ。それはどのようなものか、今の中国にどう作用しているのかは、本書の「下」を読んでから書こう。

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