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碓氷峠と浅間山山麓、歴史探訪②

さて、碓氷峠は、横川駅から軽井沢まで、半分くらい歩き軽井沢駅着、ここからさらに西に向かって浅間山山麓の御代田みよたへ。知人の別荘にお邪魔しつつ、一応、表題通りの歴史探訪のはず…。

いざ浅間山、南山麓へ

軽井沢、駅周辺の賑わいは今も昔も変わらず、こちらは、車で西に30分ほど走らせながら、浅間山の麓に向かいます。

別荘地を抜け、軽井沢らしい喫茶店も点在 20分も走れば、右側に浅間山が見えてきます
軽井沢から浅間山の南側山麓付近 (google mapより)

碓氷峠を越えて軽井沢から中山道の宿場町が続きます。旧信越本線=現しなの鉄道の駅を赤丸で囲ってみます、この「中軽井沢」は元々、沓掛くつかけという駅でした。宿場町「沓掛宿」から付けており、さらに沓掛は、昔、旅で疲れた草鞋を脱いでかけて休んだところとか、安全を祈願したという意味があるのでした。そんな名前が、商業主義で押されて、消えてしまったようで残念。中軽井沢があれば、西軽井沢、南軽井沢?もあるのか…。
「信濃追分」はそのまま残り、こちらは、中山道と北国街道の分岐点。こちらは、のちほど、訪ねます!

天候不順で見えないかと思った浅間山 辛うじて山頂付近まで顔を出す
別荘到着! 外観はふた昔前という感じの別荘、これがまたいいんですW
暖炉に火

娘と娘の友人組が遅れて合流。軽井沢から送られてきた写真は…。

しなの鉄道、湘南カラー! そうそうここにまだ居た!
113系 鉄子じゃなくても新鮮なのか… 
何枚も写真、送られてきました!
妻が御代田に迎えに行く

この日の夜は、去年も好評だったということで、流しそうめん。竹を綺麗に洗って、そうめん、味噌汁、大量の薬味でいただきます!

これは食べきれないのでは…!?
闇夜の流しそ~~めん

そうめんの後はリビングに戻り、サイコロトーク&誕生日の人が居たので、この山奥にも関わらず手作りケーキ!「三十うん歳、いい歳だぁ~」

ということで、家族のようなひと時、なごやかに就寝

浅間山の恩恵と怖さ

さて、信州と言えば、食の恵みは「蕎麦」ですが、日本の歴史の中では、そこかしこに縄文文化の発掘や足跡が数多く残されています、その一つが、ここ御代田。

御代田駅の近くにある「浅間縄文ミュージアム」

展示物は、発掘された土器、石器が多いが、縄文人の生活を垣間見ることができるものもいくつか。遺跡からの推測では、縄文時代は東日本の方が圧倒的に人口が多かった。ここでのシミュレーション(5千年前)だと縄文中期は日本の人口26万のうち、関東9万人、中部7万人。食料になる動植物の豊かさに左右されただろうという予測。

復元された縄文女性「ゆきえさん」かなりリアル!
耳飾り、櫛?、顔面把手とって

埴輪や石棒は実際どんな意味があったのか…。石は語るか。

土偶に石棒
顔面装飾的手土器 (長野国宝) 祭事に使われたらしい
こんな土器から、下のような華やかな縄文土器に変化
縄文中期のもの
こちらは「石皿」 木の実など何かをつぶしたりしたのでしょう

また、実際にこの地域で使われていた黒曜石や石器類がどこから来ているかも分析。黒曜石の分布は北海道から九州まで。縄文時代の交流の広さはこんなところから知ることが出来ます。

左「浅間山の軽石製品」 真ん中「石斧」 右「石鏃せきぞく(矢じりなど)」

最近では縄文文化は、意外にも豊かに暮らしていたのではないかと考えられていますが、だとしても、現代人に比べたら天と地の差です。

吹いたら手が付けられない「浅間山」

さて、縄文ミュージアムの二階は、浅間山に関する展示。1911年、日本で初めて火山観測所が作られたのが、この浅間山という事実だけでも、怖さを思い知るに十分。

「浅間の焼け石」1108年の火砕流で浅間山から噴出 この地域では庭石に使われている
関東近辺でもっとも手を焼く活火山

今でこそあまり聞かなくなりましたが、浅間の火山情報、昭和の後半には結構聞いた記憶が…。江戸時代、明治、昭和と噴火の記録は多い。

戦後にも何度も噴火、負傷者・死傷者を何人も出している
「天明の浅間焼け」1783年大噴火 山麓で1,000人以上の死者を出した

天明の大噴火では、噴火から派生した土石流で甚大な被害。

こんな遺跡の発掘も…
この地域で「焼け石」の石垣をたくさん見つけることが出来ます

岡田季秋のエッセイで、浅間山を見つめる人として長年、火山館という山小屋に居た小山金重翁の話があります。
浅間山はかつて東富士の演習場のように自衛隊の演習地になりそうだったが、演習の実演をしたところ地震計が大きく揺れてしまい、火山観測の邪魔になる為、沙汰やみになった。
しかし、その翁にとっては、もっと怖いのは、浅間山の火山弾。それで亡くなった人を見届けたり、登山の注意を促したり、時には自殺をしようとする人を諭したりと。
ひとたび爆発すると、音よりも早く火山弾と灰が落ちてくるそうだ。
「ものの三秒とかからないですよ」

今は厳重な最先端の火山監視システムはありますが、噴火自体をコントロール出来るわけではないのです。

ココにあった!!「御代田駅」のD51

ミュージアムを去ろうとする間際に、ちょうど本日「D51デゴイチ公開日」というチラシを発見。年に数回しか公開しておらず、幸運というか、必然というか、早速、御代田駅近辺に向かいます。現在の御代田駅は緩やかな下り坂にホームがありますが、元々はスイッチバックの駅。

以前一度探しましたが、見つけられず、駅の東側にひっそりと静態保存

D51保存会の方が3名控えていて、
(おぉ、こんな雨の中よく見に来てくれたもんだ)という雰囲気で、迎えてくれました。一見して保存状態はよく、
「釜さえ何とかなれば、動くんじゃないですか?」と訊けば、
「動かすだけで、6億円かかる」そうです…。

動き出しそうなD51 この場所がスイッチバックの駅だったとのこと
運転台
石炭くべるレバーもこの通り稼働できる

「御代田町交通記念館」と銘打たれたこの場所には、このD51一台のみ展示。何とか復活させたいと夢見る想いは受け止めました!浅間山山麓を駆け抜けるSL、再び見てみたい~

愛される「じも泉」~大谷地鉱泉

軽井沢で最も有名な温泉は、星野リゾートの「トンボの湯」でしょう。淡い青みがかった白濁色で、湯舟も広く、癒されること間違いなしですが、兎に角、休祝日は満員御礼。ちょっと人の多いところは避けたいという方にはこちらが、おススメです。

御代田駅からやまゆりラインを北上 大地谷おおちや鉱泉
外観からして、激シブな感じですが…、こちらは最近老朽化で閉鎖
更に奥に、新築になりました 入れるのはこちら

ポリバケツを持った地元の方が、雨の中、ひょいひょいと入っていきます。飲泉可能ということが分かります。

玄関入ると休憩所というか、居間?がありまして、その横には「水1リットル50円」
分析表が見つからず… 

お風呂の方は、冷泉を沸かしていますが、熱めです。無色・無臭でPHは弱アルカリでしょう。浸かっていると、日曜の午後ですが、それでも男性も女性も、2,3名ずつお客さんが切れないのです。

隣には茅葺屋根の母屋もありまして、聞けば、開湯は1806年!! 

泉質は、おそらく炭酸水素塩泉でしょう。胃腸には確実に良さそうですし、古い浴場で止めず、新しく建てるくらいなので、相当地元の人には愛されているようです。あがった後は、さっぱり爽やか、肌すべすべでした~

この日は昼カレー、夜BBQ、花火の屋外活動ゴールデンコース!  
スパイス効いたカレー&甘いスイカは最高でした~

私は右に、あなたは左に信濃追分

最終日、天気は曇り、別荘地の中はひんやりしています。のんびり散歩したり、お部屋も掃除して、帰るタイミングもまちまち。こちらは、信濃追分で、途中下車。

ほか別荘は不規則な感じで点在 レストランのような立派な別荘もあります

追分宿の西の端に立つ分去わかされの碑。国道沿いに見えるので、車からでも分かります。道路側の石面には「右、従是北国街道 左、従是中山道」と彫られています。

四角の石柱が分去れの道しるべ
「分去れ」の向かいが旧道と新道の合流地点

高崎過ぎて知り合った旅人が、碓氷峠を一緒に越えて、意気投合。軽井沢宿でどんちゃん騒ぎして一泊。沓掛宿で一服、追分宿で、別れを惜しんで、
「わたしゃ、これから善光寺へ。ところで、お前さんは?」
「こちらは、木曾でひと稼ぎして、京都へ」
「そうけ~、追はぎに気を付けや、達者でな!」
なんて出会いもあったのか。

追分宿の旧道はそれなりに古い建物も残り、雰囲気はあります
日本橋から20番目の宿 元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒とかなり繁盛
表札には「旧本陣」 焼け石の石垣
こちらは追分宿の脇本陣を務めた「旧油屋旅館」 創業は元禄元年(1688年)!
旅館業は一旦、店を閉じましたが、NPO「油やプロジェクト」が発足、期間限定で素泊まりは可能
名だたる昭和の文豪が多数宿泊
志賀直哉、井伏鱒二、川端康成、菊池寛、徳富蘇峰、室生犀星、村岡花子など

昭和12年、油屋旧脇本陣が焼失。堀辰雄は「かげろうの日記」原稿を郵便局に出しに行って難を逃れます。その後、堀辰雄、立原道造、室生犀星などを発起人に、募金活動を行い再建。文人に愛された宿だったようです。

堀辰雄文学記念館

旧油屋旅館からすぐのところに、追分本陣の立派な裏門を移築しており、この先に「堀辰雄文学記念館」があります。

追分本陣は中仙道の中でも屈指の宿泊施設を備えた本陣
アプローチが素敵! 
かなり広い敷地の中に旧堀辰雄邸 
つい最近まで住んでいたような雰囲気のお部屋 媒酌人室生犀星から送られた「たんす」アリ

堀辰雄の若かりし頃の作品、遺品も豊富に展示。そして、この追分の地をかなり愛していたようで、追分に関する作品も多い。残念ながら、旧邸にはわずかな期間しか住めなかったようで、窓の向かいにある書庫が作られるのを臥して眺めていたようです。

書庫 亡くなる10日前に完成
こちらは旧邸脇にある多恵子夫人のお宅 こちらにも親交ある人たちと交わした手紙など展示

追分宿郷土館

追分宿も終盤、宿場の東の外れには、神社の境内らしき広場が。流れる小川は佐久平に流れる農業用の用水路。

御影用水:江戸初期に作られ、北國街道沿いに小諸あたりまで引かれた
ここにも芭蕉! 「吹き飛ばす 石も浅間の 野分哉」 (更科紀行)

さて、神社の境内のようなところに、ちょっとした舞台がありました。お祭りが近いようで、こちらが「追分節」を披露するメイン会場。お祭りの時、神社の舞台でみんなが集うような時間はもう小学生くらいの時の思い出の中にしかないです。懐かしいなぁ…。

追分節 馬子唄はこちら↓↓
全国で歌われている「追分節」はココが発祥の地
発祥の地碑の後ろに、重厚な造りの「追分郷土館」

こちらには期待通り、追分宿で使われていた品々から、当時の繁栄ぶりを知ることが出来ます。撮影禁止ですが、なぜか近藤勇の脇差(小さな日本刀)が展示。

後ろの写真は明治後期の「分去れ」 今とは全然違う、原野
木曾街道 追分宿 分去れにも、こちらにも馬

平安時代から佐久から浅間山麓は朝廷へ貢馬こうばするための御牧という牧場が多数存在。昔から馬の産地なのでした。

しなの鉄道「信濃追分」

さて、ここから徒歩で、信濃追分へ。今日は午後から小雨の予報。案の定、霧が出てきました、軽井沢の風物詩。

中仙道を少し戻って
7月でも元気な紫陽花
小雨にはならず、ステキな別荘も眺めながら、のんびり歩いて
しなの鉄道が見えてきた もともと信越本線なので複線
着きました「信濃追分」 ここは時が止まったような駅舎、サイコーですね
下り列車はカラフルなラッピングで通過
追分を訪ねて 昭和のまま
夏の風に揺れる提灯 駅舎では、列者を待つ乗客 半分は外国人
待合室もうら寂しい
軽井沢まで二駅 浅間山は霧の中

思えば、今回は軽井沢の外れ、東と西を歩いたことになります。別荘では大家族のような時間を過ごし、訪ねた場所の歴史の年代はまちまちでしたが、どの場所も、人間の努力や営みを感じることが出来る温かな場所でした!
こんな旅が好きなんですよね~  (2024.7)


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