「グッバイ、レーニン」―ソ連の呪縛からの解放
*この記事は、前掲記事を基に書き改めたものです。
歴史を鏡と呼ぶ発想は、鏡の発明とともに古いように想像される。歴史の鏡に映る見ず知らずの幾多の人間達に、己の姿を感ずる事ができなければ、どうして歴史が、私達に親しかろう。―小林秀雄『プルターク英雄伝』
「グッバイ、レーニン!」する必要
大衆の先頭に立つレーニン。その迫力のある像が、ヘリコプターから吊り下げられ、夕日に向かって飛んでいく。レーニン像の撤去が物語るのは、東ドイツの黄昏だ。―このシーンは、『グッバイ、レーニン!』という映画の中で最も印象に残っている。なぜこのシーンを取り上げたのかといえば、21世紀の社会主義にとっての課題は、「マルクス=レーニン主義」からマルクスを解放することだと私が考えているからだ。
経済学者の佐々木隆治氏は、「マルクス主義」から離れ、マルクス自身と向き合う必要性を次のように語っている。
ここで「マルクス主義」と呼ばれるイデオロギーは、「マルクス=レーニン主義」と同一のものだ。このイデオロギーを「科学的社会主義」(注1)、あるいは「民主的な新しい社会主義」(注2)と言い換えたところで、実体を離れた小理屈を振りかざしていることに変わりはない。「マルクス=レーニン主義」と名付けられたとたんに、本来そこにあった人間解放の思想がミイラのように活力を失い、同時に彼の名前は「化けもの」となり「ひとり歩き」を始めてしまう(注3)。形骸化した主義主張は何の役にも立たない。
ソ連崩壊から30年以上が経つ。ベルリンの壁の崩壊は『グッバイ、レーニン!』にも描かれていたが、社会主義を名乗る国が覇を唱えていた時代は終わった。しかし、カール・マルクスの解釈はその時代のままだ。革命の闘士、プロレタリア国家をめざした思想家……私たちの頭の中からも、レーニン像をなくす必要があるのではないか。
マルクスと向き合う
「プロレタリア解放」の次は「市場経済の勝利」、そして近頃は「資本主義の限界」と、流行に乗り遅れまいと昨日まで読んでいた本をごみ箱に捨てる傾向が日本人の間に見られる。
この丸山眞男の嘆きには、少なからず共感を覚える。
マルクスは夢想家、時代遅れと決めつけることが昨今の流行だが、世評に耳を貸さず、私たちは謙虚にマルクスと向き合おうではないか。笑う者は放っておけばよい。貧困や紛争、市場経済の歪み、気候変動といった課題を解決するには、マルクスとの対話を通じて、鈍牛のごとく考えて考え抜かなければならない。保守主義者であってもマルクスとの対話は意義があろう(注4)。
マルクスとの対話と書くと、日本共産党の宣伝をしているかのようだが、私は日本共産党とは異なる立場にある。日本共産党は「マルクス=レーニン主義」という看板を「科学的社会主義」という看板に掛け替えただけで、マルクス解釈の枠組みはソ連の遺物だ。社会主義の大国がなくなった今もなおレーニンの遺訓を尊ぶさまは、『グッバイ、レーニン』における、東ドイツが崩壊していないかのように振る舞う主人公を彷彿とさせる。
例えば、93-94年に丸山眞男の『戦争責任論の盲点』に対する排撃を行った頃から、日本共産党の「平和のために闘ってきた」とする自己規定は変わっていない。その根底にあるのは、マルクスとレーニンの理論を正しく解釈できるのは日本共産党だけだとする考えなのだろう。かかる独善的な態度は、マルクスをめぐる広範な議論を妨げるおそれがある。
マルクスに向き合うとは、自派の政治運動のために演繹的にマルクスを解釈することではない。政治運動と学問的な活動とを峻別し(注5)たうえで、知の巨人・マルクスの複雑な思想を、その著作を静かに読むことで解明することである。自分の心とマルクスの心が通じ合う瞬間を待って、マルクスの人間性を捉えようとすることである。それができなければ、政権交代などおぼつかないではないか。
呪縛からの解放
社会主義者を苦しめてきたのは「マルクス=レーニン主義」という重荷である。いや、呪縛と呼んだほうが適当だ。柄谷行人が独創的な仕事をなしえたのは呪縛から解放されていたからだと思うが、日本共産党、新社会党をはじめとする政治勢力は、マルクスの著作を崇めるのは止めて、素直な心をもってマルクスに向き合うべきではないか。巨大なレーニン像を背負ったままでいいはずがない。
注1 日本共産党は、規約をはじめとする各所で「科学的社会主義」という表現を用いている。
注2 新社会党は、声明や談話で「社会主義」を掲げることこそ少ないが、その綱領にはこうある。
注3 丸山真男『日本の思想』岩波書店、1961、p141
注4 マルクスとの対決を通じて保守主義の側もおのれの思想を鍛えるべきだ。マルクスと対決した者の一人に、カール・シュミットがいる。マルクスが自由なアソシエーションをめざしたのに対して、カール・シュミットはこれを退け、大衆の拍手喝采に支えられた強い指導者を待望した。カール・シュミットの理論については下掲記事が参考になる。
注5 もちろん、マルクスの哲学においては理論と実践とが結び付けられていることは言うまでもない。だからといって、マルクスをめぐる議論に過度に政治色を載せるべきではないのではないか。
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