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naoyatakahashi
#ちょろけんのメモ 路上ライブ論断章
#ちょろけんのメモ
— ちょろけん🕊 (@Higashiya_13) July 10, 2023
問題意識に共感した。道路は本来なら公共の空間として、都市住民の身体を動かす場である。路上ライブは治安維持の視点から解放されなければならないだろう。
#ちょろけんのメモ
— ちょろけん🕊 (@Higashiya_13) July 12, 2023
公共哲学、ね。ストリートパフォーマンスを、「私」から「公共」を作り出す動きとして位置付けることはできるのかもしれない⁇
#ちょろけんのメモ
— ちょろけん🕊 (@Higashiya_13) July 12, 2023
居酒屋考現学を参考に、路上ライブと政治学をどう結びつけるか…🤔
#ちょろけんのメモ
— ちょろけん🕊 (@Higashiya_13) July 16, 2023
> 「広場は市民会館のような公の施設か、それに準じると考えるべきだ。また、利用者が限定された施設でも、場所や時間を分けることで、広く一般の人たちが使うことはできるはずだ」
#ちょろけんのメモ
— ちょろけん🕊 (@Higashiya_13) July 17, 2023
特集「社交の復権」は、コロナ禍の後にゆるやかなつながり=社交を取り戻すにはどうしたらよいか考察するもの。対談では『社交する人間』が参照されており、興味をもった。
路上ライブを線香花火のようにはかない社交として捉えることもできないか。
路上ライブと政治学を結びつけられないかという思いつきを、忘れないようにメモしておく。
新宿駅南口に行くたびに思うのだ。スマホ、車の波、ガラス、コンクリート、広告、重機……そういったものの間で、路上ライブの演奏を誰かと聴くことは、“都市計画”と都庁とゼネコンから人間らしさを取り戻す闘いになるのではないだろうか、と。見知らぬ人と同じ曲を聴くことは、無言のうちに、共に身体で感じ、共鳴する関係になるが、この関係性は社会にとってまんざら悪いものではない、と。だが、どこに政治を見出せばいいのだろうか。
ルフェーヴルの才能を分けてほしい。
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