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2023年、未来の自分にとってのターニングポイントになってそう

昔から、年末年始の雰囲気はちょっと苦手だ。親戚が集まって、各家庭の、あるいは近所の人たちの近況について報告しあったり、それら一つ一つをジャッジし合うあの雰囲気が。同調圧力という言葉を知る前から、家や世間体を重んじる、保守的な幸せの枠に押し込もうとする謎の力に居心地の悪さを感じていた。家族や親戚に嫌いな人がいるわけじゃないのに、なぜ億劫に感じてしまうんだろう?という世間と自分への嫌悪が混ざったモヤモヤした気持ちを抱え、毎年のように暗い部屋で一人うずくまっていた。

あのモヤモヤの正体、今なら分かる気がしている。それはきっと大人たちから提示される幸せの選択肢が少なすぎて、そこから少しでもはみ出た瞬間に不幸になる、みたいな強迫観念なんだと思う。僕は昔からとにかく苦手なことが多い。体力は無いし、食べられないものは多いし、夜ちゃんと寝られないし、言葉は上手に話せないし。そういった苦手がたくさん積み重なるほど、丈夫さと密な人付き合いが求められる、保守的な幸せ像との距離が開いていく。このことが言語化できたのは最近なのだが、小さい頃から自分が保守的な幸福論との相性が悪く、それを手に入れた大人たちと同じにはなれないことに直感的に気づいていたのだと思う。そんな調子なので、上手く行く未来みたいなものがどうしても描けず、選択に迫られた時はとりあえず1番遠くに行けるものを選ぶという雑な選び方をしていた。

今年関東に来ることになったのも、そんな投げやりな選択の結果だった。制御不能な人生をひとまず生き延びることしか考えていない、流れに身を任せるような浮遊感。正直もう疲れ果てていた。どうせこうなるなら学生のうちにドロップアウトしておけば良かったと後悔した。

他の人たちはどうやってこの世界を生きているのだろう?現実から逃げるように、あるいはすがるような気持ちで人に会いまくった。今まで話さなかったことを沢山話した。今まで聞けなかったことを返してくれる人が沢山いた。世の中は小説の世界よりもべらぼうに多様だった。身近な大人たちが語っていた幸福論の外側にも、ちゃんと別の世界があった。なんなら選択肢ごと作っても良いのだ。それらを選んだり、手繰り寄せたり、こしらえたりしているうちに、投げやり以外の手段でも生きていけそうな気がしてきた。

関東に来てから、毎日が冒険のように感じる。わけのわからないことが沢山起こる。それが別のわけのわからないことを呼ぶ。それらを一つずつ、自力で楽しいものに変えていく。僕はもう少しだけ混沌とした暮らしを楽しもうと思う。

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