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番外編:嗚呼過ぎ去りし日よ
和やかな夜のひとときが、今宵もゆるりと過ぎていく。
ひりつくようなポーカー勝負に厭いたウォルターたちは、オールドメイドに切り替えて、歓楽の時を過ごしていた。
「またまたお先に失礼、諸君!」
「団長、やっぱり引き良すぎませんか?」
颯爽と上がりを決めたウォルターに、エドワードが不思議そうに首を傾げた。
凜々しい眉が八の字になっているから、きっと、またぞろジョーカーを引いてしまったのだろう。
エドワードは、一見すると表情の乏しい青年だが、彼の感情を読み取るのは、そう難しいことでもない。
「自分でも不思議なくらいだがねえ。」
ウォルターは、細葉巻に火を点けると、勢いよく紫煙を吐き出した。甘く、深みのある香りが、心地よい陶酔感をもたらす。
「団長は、昔から引きが強かったのですか?」
エドワードと最下位を争っているバーニーが、ふと顔を上げた。
「まあ、そうだな。兄がカードゲームをするとき、絶対に私を呼ばないくらいにはね。」
今でも、兄はウォルターをカードゲームには誘わない。例外があるとすれば、何かを賭けていて、絶対に勝ちたいときだけだ。
「昔、と言えば……。団長、聞いても良いですか?」
エドワードは、カードを伏せると、問いを口の端にかけた。
「ん? 何だね、エドワード君。」
わざわざ背筋を伸ばしてまで知りたいこととは、一体何だろうか。
「父の回顧録に、団長と二人で、パブに居座っていたギャングを一掃したって書いてあったんですけど、本当ですか?」
エドワードは、前のめりになりながら問いを重ねた。黄金色の瞳が、期待を乗せて少年のように輝いている。
「……ああ、あの話かね。大げさに書いてあったが、まあ結果的には、ね。」
ウォルターは、思い返すように天井を仰いだ。
確か、あれは十九年前の冬の日、自分が副団長になって間もない頃だったか。
寒風吹き荒ぶ路地裏に、ぽつりと明かりが灯っている。ドアの上に提げられた控えめな看板が、ここが民家ではないと示す唯一の標識だ。
古びた木製のドアを潜れば、暖炉の熱に煽られて、アルコールと、ジュニパーの饐えた匂いがつんと鼻につく。
ランプで照らされた狭い店内は、大勢の酔客でごった返していた。
ウォルターは、騎士団長の背中を追って人混みを抜けると、既にカウンター席に陣取っている団長の隣に腰を下ろした。
いまにも砕けそうなほど頼りないカウンターチェアは、ぎしりと不穏な悲鳴を上げる。
「ウォルター、君はこういう店には入らんだろう?」
賑やかさを通り越して、動物園のように騒々しい店内でも、アラン・オルブライトの声は、明瞭にウォルターの耳朶を打った。
「はあ。まあ、そうですな。」
この騎士団長ときたら、声も、身体も飛び抜けて大きい。
実際には、長身であるウォルターより若干高いくらいだが、雲を突くような巨漢であるかのように感じられるのは、誰よりも鍛え抜かれた鋼の肉体と、眉の凜々しい顔立ちのせいもあるのだろう。
ウォルターは、上司の言葉に気のない返事を返すと、改めて店内を見回した。
軋む木製のカウンターチェアにはクッションさえなく、締め切られた店内の空気は、どんよりと澱んでいる。
ランプには埃が積もり、客達は、めいめい安酒をひっかけながら、下世話な会話を繰り広げていた。
猥雑で、お世辞にも、居心地の良い空間とは言えないだろう。
まがりなりにも伯爵家の末席に名を連ねるウォルターからすれば、このパブは、未知の世界に等しかった。
それでも、不思議と不快ではない。むしろ、気取ったクラブなどより、ずっと気が楽だ。
騒々しいが、何よりここは、人々が伸びやかに活きている気配がする。
「今日は俺の奢りだ! 好きなだけ飲んでくれ!」
アランは、豪快に笑うと、ウォルターの背中を叩いた。
「ありがとうございます。ではジンを。」
ウォルターは、衝撃でつんのめりそうになるのを堪え、何食わぬ顔で答えた。
「お。最初から飛ばすな。では俺もそうしよう。……マスター、ジンを二つくれ。」
アランがマスターに声を掛けてから、程なくして酒が運ばれてきた。
二人は、安っぽいジンのグラスを傾けながら、他愛のない会話に花を咲かせる。
「君は、まだ結婚はしないのかね、ウォルター。」
「考えたこともありませんな。」
ウォルターは胸ポケットからシガーケースを取り出すと、細葉巻に火を点けた。
「いいぞ、妻がいるのは! 子供は可愛いし、仕事にも自然と身が入る。」
興味なさげに眉を上げるウォルターを置き去りにして、アランは豪快な笑顔を浮かべた。
「団長の奥方様のお噂は、かねがね伺っておりますな。あのセシリア嬢でしょう?」
セシリア・オルブライトとなって久しいかの貴婦人は、ミーティアでも指折りの美女と謳われていた。
世代は違えども、その噂は、ウォルターの耳にも入っている。
「何だ、君も知っているのか。」
「まあ、社交界では有名なレディですからな。」
ミラケーティー子爵家のセシリア嬢といえば、かつて数多の男の心を奪い、求婚者が後を絶たないほどだったと聞く。その中には、アルテア侯までいたというのだから、よほどの美しさであったのだろう。
そんな絶世の美女が、侯爵さえ振って選んだ相手が彼であるというのが、何よりも不思議でならない。
ミラケーティー子爵からすれば、娘には侯爵の手を取って欲しかったに違いない。彼女よりは随分年上ではあっても、家格といい、年に似合わぬ洒脱さといい、悪い相手ではないだろう。
それに引き換え、アランは、どちらかと言えば恐ろしげな風貌である。数多の紛争を平定した英雄とはいえ、侯爵と比べてしまえば、見劣りするのは否めない。
「我が妻は、美しい。心根が、一等美しいのだ。何せ、俺を見て怯えた素振りさえ見せない、優しい人だからな。」
ジンのグラスを一息に干して、アランは、慈しむように目を細めた。
戦神と畏怖される歴戦の騎士も、このように柔らかな表情を浮かべるのか。
ウォルターは、彼の横顔を眺めながら、ふわふわと落ち着かぬ気持ちで紫煙を吐き出した。
「私も、あと十年早く生まれていれば、団長の恋敵だったやもしれませんなあ。」
「ははっ! 我が妻ばかりは、譲る気はないぞ! 何、今にこの人、という女性が現れるだろうさ。その時は、逃すなよ。」
冗談めかして杯を傾けるウォルターの肩を、アランは、親しみを表すように何度も叩く。
「生憎と、女性に逃げられたことはないのですよ。ふふ。しかし、そういうものですかね。想像がつきませんな。」
ウォルターは、わざとらしく眉を上げると、堪えきれずにちいさな笑声を上げた。
「そういうものだ! 俺もそうだった! 自分が家庭を持つなんて、思いもしなかった。それが、今では、優しい妻と元気な子供達に囲まれている!」
アランは腕を組むと、幸せを噛みしめるように何度も頷いてみせた。
「団長のところは、確かご子息が二人いらっしゃるのでしたかな?」
「ああ、サミュエルは妻に似て、賢く心優しい子だ。いつも弟の面倒を見てくれるし、器用に何でも作れる。エドワードは、俺に似て逞しい。四つの頃には、壁に穴を開けて道を作るほどだったからな。さすがは、我が息子達だ!」
アランは、喧しい顔をこれでもかとくしゃくしゃにしながら、嬉しそうに身体を揺すった。
「なかなかに、やんちゃですな。」
自分もいつか、彼のように家族について語る日が来るのだろうか。
「何、子供は元気が一番だ!」
アランは呵々と笑うと、二杯目のグラスを空けた。
「……おや?」
不意に、店の空気が重くなる。激しく言い争う声が、穏やかな時間を消し飛ばした。
「やめてください! 離して!」
「いいじゃねえかよ、姉ちゃんさあ。」
ウォルターが振り返ると、男が、女性の手を強引に掴んでいるのが見えた。
連れの男達も、誰ひとり咎めるでもなく、下卑た笑みを浮かべている。全員が、したたかに酔っているのだろう。男達は、嫌がる女性を囲んで、囃し立てるばかりだ。
ひとりの男として、騎士として、このような場面を見過ごすことは出来ない。
しかしながら、酔漢といえども相手は一般人だ。出来ることなら、穏便に済ませたい。
ウォルターが様子を伺っていると、彼らのテーブルの上に、ちらりとカードとチップの山が見えた。きっと、金でも賭けてポーカーをやっていたのだろう。
それならば、彼らに一勝負ふっかけて、気を逸らしたうちに女性を逃がすか――。
ウォルターが思索を巡らせているうちに、隣に座っていたアランが、矢庭に立ち上がった。
大きな足音を響かせながら、躊躇いもなく騒動の渦中に向かって進んでいく。
「やめないか!」
天を割るような怒号が響く。
アランは、女性の細腕を掴む男の手を振り払うと、眉を釣り上げて男を睨め付けた。
その衝撃に、ウォルターを含めた全ての人がはっと息を呑む。
「あぁ? てめえに関係ねえだろうがよ!」
思わぬ掣肘を食らった男は、どろりと濁った目で、アランを睨み返した。
アルコールが、彼の判断力を鈍らせたのだろう。
男は、怯むどころか、いきり立って拳を振り上げた。
「いいだろう! その意気や良し!」
アランは、正面から拳を片手で掴むや、勢いのままに男を投げ飛ばした。テーブルをなぎ倒しながら、男は壁に叩き付けられる。
その一撃が男達に火を点けたのは、言うまでもない。
一斉に向かってくる酔漢達を、アランは、片っ端から叩きのめし始めた。
「まったく……!」
ウォルターは、拳やビール瓶が飛び交う騒動の間隙を縫って、素早く女性を抱き上げると、力強く地を蹴った。
そのまま転がり出るように、唖然とした女性を連れて、路地裏を駆け抜ける。
「……お怪我はありませんかな、レディ。」
ウォルターは、大通りまで出たところで、女性をそっと降ろした。
ここまで来れば、あの騒乱の中、彼女を追ってくる者もいないだろう。
「はい、ありがとうございます。」
彼女は、混乱から冷め切らぬ顔で、静かに頭を下げた。
「店に戻るのは、やめた方が良いでしょうな。後のことは気にせず、もう今日はお帰りなさい。……お近くかな?」
「ええ。何から何までありがとうございます。あの大きな方にも、お伝え下さいまし。」
彼女は頷くと、もう一度深く頭を下げて、足早に雑踏に消えていった。
「さて、と。」
今頃、店はひどい有様になっているだろう。あの人を放っておけば、一体どうなることやら。
ウォルターは、深い溜息を零すと、くるりと踵を返した。
ウォルターが路地裏を曲がると、既にパブの前には、黒山の人だかりが出来ていた。
酒瓶を抱えたまま避難してきた客や、騒ぎで飛び起きたであろう近所のご婦人など、狭い道に大勢がひしめいている。
「失敬……!」
ウォルターは、酒臭い野次馬達を押しのけて、何とか長躯を扉にねじ込んだ。
群衆から抜け出せば、そこは、さながら戦場と化していた。
アランは、ひとりで十人以上に取り囲まれ、裂帛の気合いで拳を交わしている。
テーブルやカウンターチェアは、そのほとんどが砕け、折れて、気を失って転がる男達の周りに転がっていた。赤々と燃える暖炉の火が移っていないのは、不幸中の幸いと言えるだろう。
見る影もなく荒らされたパブリックルームを、アランは、枷の外れた鬼神のように、縦横無尽に暴れ回っている。多勢に無勢であることなど、彼にとって問題ではないようだ。
「てめえ、あいつの仲間だな!」
入り口で眉を顰めていたウォルターに、血眼になった男が正面から突っ込んでくる。
ウォルターは、危なげもなく首を捻って拳を躱すと、男の首筋に手刀をたたき込んだ。
力強い一閃に、男はあっけなく頽れる。
「やれやれ。荒事は、あまり好きではないんだがねえ。」
ひとり減らしたところで、そう易々とは通してくれないらしい。こちらに気付いた酔漢のひとりが、仲間を引き連れて、ビール瓶を片手に立ち塞がった。
ウォルターは、ポケットに手を突っ込んだまま、のらりくらりと男の打撃を避け続ける。
「こんにゃろ……!」
右へ、左へ。ワルツでも踊るように軽やかに揺れるウォルターに、男は、赤ら顔を更に赤くした。
こらえ性のない獣のように、男はビール瓶を大きく振り上げる。
「おっと。」
ウォルターは、流れるようにくるりとターンを決めた。
男の一撃は空を切り、そのまま前のめりに体勢を崩す。
刹那、ウォルターは、長い足を振り上げた。
磨き上げられた革靴が、暖炉の火でぎらりと閃く。
寸毫違わず首筋に振り落とされた踵ごと、男は地面に倒れ伏した。
仲間達も、たじろいだようにじりりと一歩後ろに下がる。
ウォルターは、臨戦態勢のまま、ちらりとアランに視線を送った。
どこから湧いて出たのやら、ざっと見ても、既に十人ほどが、床と熱烈な抱擁を交わしている。自分の足で立っているのは、アランとウォルターを除けば、七人ほどだろうか。
狭いパブリックルームに、硝煙の香りはしない。おそらく、頭数は揃っていても、誰も銃を持ってはいないと見て間違いない。
それならば、と、ウォルターは、ぐんと地面を蹴った。一直線に、目の前の男との距離を詰める。
ウォルターは、加速した勢いに乗って、相手の鳩尾に痛烈な一打を放った。
派手に吹き飛んだ男を無視して、ウォルターは続けざまに、アランの後ろにいた男を蹴り飛ばす。
「おお、ウォルター! 戻ったか。」
「レディには、無事お帰り頂きましたよ。」
「それは重畳!」
ウォルターの手短な報告に、アランは、ぱっと顔を輝かせた。
残るは、あと五人――。
二人は背中合わせに立ち、酔漢達を見下ろした。
アランの拳が風を切る音を聞きながら、ウォルターは、正面にいる二人の男と対峙する。
棒きれを中段に構え、雄叫びを上げながら突進してくる男の攻撃から、ウォルターは、ぐんと身を沈めて逃れた。そのまま男の懐に潜り込むと、男の顎をしたたかに殴り上げる。
残されたもうひとりの酔漢は、呆気なく倒された仲間の姿に愕然としていた。
半瞬遅れて振り上げられた捨て鉢の一撃を掻い潜り、ウォルターは、彼の横っ面に、苛烈な裏拳を叩き付ける。
悲鳴を上げる間もなく、男はがくりと膝をついた。
先程までの騒動が嘘だったかのように、水を打ったような静けさが訪れる。
振り返れば、アランとウォルターの他に、立っている者はもう誰もいなかった。
「まったく。もっとスマートなやり方があったでしょうに。」
ウォルターは、細葉巻に火を点けると、抗議の意を込めて、眉間に皺を寄せた。
「はは、そう言うなウォルター。これが一番早いだろう!」
アランは、見るも無残なパブリックルームを見渡すと、ウォルターの抗議を豪快に笑い飛ばした。
確かに早いかも知れないが、ここまでやる必要はなかっただろう。この戦神は、戦場以外では、後のことなど全く考えないきらいがある。
ウォルターは、痛み始めたこめかみを押さえると、苦々しげに紫煙を吹き上げた。
紫の煙は、埃っぽい空気に紛れて、ゆるりと溶けていく。
「……とまあ、レディを逃がすために団長が暴れたら、たまたま相手が、パブに居座るギャングだった、というだけの話なのだよ。店を壊したというに、店主には感謝されたがね。」
一通り語り終えて、ウォルターは、溜息と共に紫煙を吐き出した。
あの時は、自分も若かったとはいえ、随分と無茶をしてしまったように思う。
相手があの辺りを根城にしていた荒くれ者の集団だったことから、処分こそ免れたものの、始末書や、店の修繕などで、あの時は散々な目に遭ったものだ。
今でも思い出すと、こめかみが痛むような心地である。
「なるほど、そういうことだったのですね。……父の回顧録、すこし分かりにくくて。」
エドワードは、興味深そうに頷くと、すこし困ったように頬を掻いた。
「アラン殿の文章は、潔すぎるというか、少々癖が強いからね。」
あのお人は、何事も大味なのだ。老いて尚、それは変わっていないらしい。
「……おっと。もうこんな時間か。」
遠くの方から、教会の鐘の音が響く。
ウォルターが懐中時計に目を落とすと、針はもう、十九時を差していた。きっと今頃、子供達が、お腹を空かせて待っているだろう。
「それでは、私は失礼するよ。君たちも、ほどほどにな。」
ウォルターは立ち上がると、団員達に釘を刺して、さっと踵を返した。
妻の待つ、我が家へ帰ろう。今日の夕餉は、何だろうか。
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