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願いごとを叶えるのは、神様じゃなかった。

「ばあちゃんの八百屋、閉まっとったよ。」

じっとりとシャツに汗を滲ませながら家路についた僕は、母にそう告げた。

なんね、あんた聞いとらんと?と一瞬だけ怪訝そうな表情を見せたが、すぐに調理に戻る母。きょとんとしている僕を尻目に、こう続けた。

「ばあちゃん、先月死んだとよ。」

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ばあちゃんは僕が生まれるずっと前から1人で八百屋をきりもりしていて、近所の人もみんな「ばあちゃん」と呼んでいた。最初は大きくてちょっぴり怖かったけれど、小学校3年生になる頃には同じくらいの身長になっていた。

近くに公園のない僕たちは、いつも八百屋の前にあるベンチに座って遊んだ。当時はゲームボーイが流行っていて、「いつまでぽちぽちしよるとか!」ってよく怒られた。「ばあちゃんには分からん!」って反抗したりもしたけど、冬になればカイロをくれるし、夏になればアイスをくれた。

それから中学生になって、初めて彼女ができた。だけど、僕たちの町には、ドラマで見かける多摩川の河川敷も、丘に佇むブランコもない。結局、気付けば八百屋のベンチに座っていた。「いつまでいちゃいちゃしよるとか!」って怒られるかなと思ったけど、ばあちゃんは何も言わずに笑っていた。

高校生になった僕は、学校に上手く馴染めずにいた。帰り道に八百屋のベンチに座っては、すっかり小さくなったばあちゃんと話をした。

「ねえ、ばあちゃんは何でいつも1人でおると?」

「そりゃ、ばあちゃんは織姫やけん。」

「てことは、彦星のどこかにおると?」

「おる、おる。」

そんな他愛もない話をしながら少しずつ学校に馴染んだ僕は、いつしかばあちゃんのところに行かなくなった。無意識だったけれど、それが大人になるってことなんだと思い込んでいた。

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「ベンチの隣に笹の木が飾ってあったの、覚えとる?」

そうだ、七夕の日にみんなで願いごとを書いてたっけ。みんなが「バルセロナでプレーできますように」とか「プリキュアになれますように」とか書いている中で、僕は「ばあちゃんが長生きしますように」って書いて笑われたんだ。

母の話によると、ばあちゃんには旦那さんがいた。

結婚前から噂になるほど仲が良いカップルだった2人は、周りの応援にも支えられて見事ゴールイン。めでたく家族になった証にと家を建てている中、突然の病に倒れた旦那さんに先立たれてしまった。

「あたしがよか野菜ば売れば、みんな健康になる。野菜はダメになったらすぐ分かるけど、人はいつダメになるか分からんけん。」

新居に1人、ポツンと残されたばあちゃんがそう言って開いたのが、あの八百屋だったそうだ。

「話したことなかったっけ?」

初耳だった。ずっと、当たり前のように僕たちを見守ってきたばあちゃんは、当たり前のようにいたはずの人を想いながら生きた。あの笹の木に集まった無数の願いごとは、きっと叶う。

神様は、どこまでもイジワルだ。

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