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東日本大震災に想いを寄せて

3月11日。今日は父の誕生日でもると同時に、東日本大震災が起きた日でもあり、忘れることができない日になっています。

2011年の今日。私はNTTドコモの本社に勤めており、溜池山王駅のビルにいました。当時の携帯電話会社にとって3月は、学割という学生向けのキャンペーン真っ最中で、私もプロジェクトの一員として対応をしていました。

午後のある時、大きめの地震が起きました。記憶が定かではありませんが、非常に長く、5分~10分程度ビルが大きく揺れていたと思います。免震構造のビルは、揺れを逃すため、横に揺れるのですが、向かいの大きめのビルが視界から消えるほど、大きく揺れていて、ただ事ではないと感じたのと、地震が収まった後、余震に備えていた際に、窓の外を見ると、遠くのビル群の一角から煙が数本上がっているのが見えました。関東大震災では、地震の後火事による被害が多かったというのを以前聞いていたので、同じようなことなのかと不安になりましたが、火事による被害は少なく、当日は電車が動いていないので数時間かけて歩いて帰ったという記憶だけが残りました。(タクシーは皆無、自転車も売り切れでした)

被害が明確になったのは翌日12日。東北での被害が明らかになるにつれて、インフラ会社であるドコモは慌ただしくなります。行政や病院、避難所などの重要拠点の通信インフラ確保のため、全国にある移動基地局車や人員を東北に派遣する手配をしたり、現地での充電設備、携帯電話の貸し出し、避難所での情報提供など、現場では知恵を絞った行動がされます。私が当時所属していたのは営業制度(法務)。法律・省令に則って、受付方法を定める部門(法令に準拠した、受付用紙の作成から、お客様に渡すツールの作成、社内用の受付システムの構築、受付時のデータの保管から、スタッフ向けのマニュアルを作成、研修をする)でした。

東北支社のメンバーにすぐにヒアリング。一番の困りごとは「携帯電話を紛失した(津波に流されたり、自宅に置いてきてしまった。当時は自宅へ帰ることが認められなかった)人が、携帯電話を欲しいと来るが財布も身分証もない」ということだった。携帯電話は、オレオレ詐欺などの影響から、法律によって申込時に公的身分証明書での本人確認とその記録の保存が義務付けられていた。携帯電話は在庫があり、SIMカードも在庫があるので、物理的には、開通をして渡すことができるが、身分証がない人に携帯電話を渡すことは、全ての携帯電話会社でできなかった。

しかし、この声を国会議員や監督省庁である総務省に伝え続けたことで風向きは変わりました。携帯電話会社がリスク(携帯電話本体の代金や通信料金が事後払われないこと)を持つことで、身分証が無くても、携帯電話を開通し、渡すことを可能にする特例が作られることになったのです。

社内では、すぐにリスクの洗い出しや、受付方法を整理し、経営層や各部の合意を経て、許可が出た翌日には被災者の本人確認無しでの携帯電話契約が始まることになりました。

「被災者のために」

遠く離れた東京の地でも、同じ目的のためにベクトルを合わせて働く人たちは強い!というのを、社内だけでなく、国会議員や中央省庁を含めて感じたのと同時に、政治的決断というのは多くの人たちに影響を与えるものだというのを改めて感じました。

1年後

会社の有志で東北復興ボランティアに行きました。場所は南三陸町。行きのバスの中、崩れ落ちた建物や、陸に打ち上げられた船など、想像を絶する光景を見つつ、向かった目的地。私たちのミッションは、決められた区画のゴミの処理と、地面を掘ること。事前のレクチャーでは「骨が出た場合は、警察に届け出ること」でした。これは遺族にお返しするために重要なこと。私たちの回では骨は出ませんでしたが、地面の中からエアコンの室外機や軽自動車など、想定しないものが山ほど出てきて、自分が持つ概念が変わるのをリアルタイムで感じる日々でした。

大切な家族や、友人を亡くした方が多くいて、その悲しみの総量は計り知れません。

日本の歴史を紐解くと、災害との闘いは数知れず。台風,豪雨,豪雪,洪水,土砂災害,地震,津波,火山噴火。しかし、それを人々の知恵と技術革新で乗り越えてきた歴史でもあります。

「国を守る」

国民民主党が掲げる、このキャッチフレーズの下、私たちは今できることから目を背けず、最善を尽くすことを誓います。あの日、あの時を忘れず、平時から備えをし、日本を上へ上へ、向上させることに尽力いたします。

長文乱文にお付き合いくださり、ありがとうございました。改めてですが、被災者の方のご冥福をお祈り申し上げます。

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