ラザフォード_オールコック

英国初代日本総領事オールコックの富士登山とカミラ号の遭難

オールコック著『大君の都(中)』に富士登山の記録が書かれています。

時代は幕末1860年(安政7年)、桜田門外で大老井伊直弼が暗殺された年。司馬遼太郎でしか知らなかった幕末でしたが、彼の日記中心に書かれた著書から幕末の「緊張した空気」と「不思議の国」日本への好奇心が伝わってきます。

オールコックの富士登山は外国人初ということで有名な登山史のひとつですが、読み進めるうち、重大遭難事故の事実を知ることとなりました。

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HMS Camilla,Canton River, 1858.

nationality: british
purpose: war
type: sloop-of-war
propulsion: sailing ship
date built: 1847
tonnage: 549
dimensions: 38.1 x 10.6 x 4.6 m
material: wood
armament: 16 guns
cause lost: typhoon
date lost: 00/09/1860
casualties: † max.121 rank: 558

1860年(安政7)9月2日、イギリス軍艦カミラ号(司令官コルヴィル大佐)が箱館を出航しましたが、台風で乗員130名全員が行方不明になっています。

当初、司令官コルヴィル大佐はオールコックの富士登山計画に参加したいと強く希望を出しましたがアロー戦争で必要になった荷馬を北海道で調達する任務を任ぜられ、富士登山を断念、よほど行きたかったのか少々ご立腹であったとのこと。富士登山終了後の9月中旬に熱海でカミラ号が出迎える予定でした。

オールコック隊は9月7日に富士山村山登山口へ向かう吉原(現・富士市)あたりで台風に遭遇。半日ほど足止めを食らいましたが、9月2日に箱館を出港したはずのカミラ号のことを気にかけています。

ラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock KCB、1809年5月- 1897年11月2日)は、英国の医師、外交官。清国で福州領事、上海領事、広州領事を経て、15年間(1844-1859)の中国勤務の経験をかわれ、総領事兼外交代表として1859年(安政6)に来日。日本が明治維新をひかえて騒然としていた時代、1862年(文久2)までの3年間を日本で外交官として、幕府との条約交渉や外国人襲撃事件の賠償要求、外国人保護要求などの任務を務めながら、日本各地をよく旅行しました。

生活・健康状態、産業、経済、宗教、文化など詳細に書き残し、東洋の他の国との比較で優位な文明を多く書いていますが、西洋文明に比べて後進性への批判も加え、当時ほとんど欧州に日本研究の情報のなかった時代に、大きな功績を遺しています。 

1859年(安政6)6月26日品川沖より上陸し、高輪の東禅寺に入り、暫定の英国総領事館を開きました。

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第一次東禅寺事件 「襲撃後のオールコックの部屋 東禅寺」(この絵を描いたCharles Wirgmanもこの場に遭遇した)
1861年7月5日午後10時頃、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名が東禅寺の英国公使館に侵入し、オールコック公使らを襲撃した。

東禅寺

高輪東禅寺の柱に残るサーベル傷 

攘夷の武士たちによる、相次ぐ外国人襲撃事件の対応で、犯人捜し、裁判や処刑への立合い、幕府や藩との折衝(自国民保護要請や被害家族への賠償金の要求等)など激務であったに違いありません。

富士登山の後は、二週間にわたってのんびりと熱海に逗留し、カミラ号を待ちましたが、不安が的中し、迎えの船は現れません。太平洋の海の藻屑と消え、遺体も船体のかけらも見つけることはできませんでした。

熱海ではオールコックが唯一の家族としてかわいがっていた愛犬のスコッチ・テリア「トビィ」が大湯間欠泉の熱湯に触れて命を落とす事故がありました。

唯一の家族を亡くしたことに

この愛犬の死すらが生ずる空白を理解するには、日本における外国公使の孤独な生活をいちど味わってみなければ不可能であろう。私欲のない愛情と信用がこの世からなくなってしまった。

と述べていますが、カミラ号の遭難に加えて、彼の悲しみと喪失感を思うとお気の毒としかいいようがありません。

1858年(安政5)7月18日に日英修好通商条約が批准されました。それまで外国人の国内移動が制限されていましたが、移動の自由を強く要求し、嫌がる政府を説得し、自由旅行の権利を一文入れることに成功しました。

その権利を行使することが目的のひとつで、富士登山を計画。英国人はオールコックとロビンソン大尉、植物学者のヴィーチの3人、副奉行、役人3人、目付の計8名の隊員と案内人や人夫など大部隊となり行列は100人にも及び、30頭の馬が重荷を運びました。オールコックは少人数での隊を希望しましたが、政府側が安全にたいする不安を公言して仕方なく護衛をふやすことに同意。

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道路沿いに永遠と並んでいるこの行列を見渡したときに、自分の計画をかえりみて、思わずため息をついてしまった。」(中略)「わたしはさきに、江戸における一種の監禁状態から脱出する楽しみと、目新しい土地にひじょうに珍しい視察旅行をするという魅力のほかに、政治的な目的があるといった。美しい景色の眺望、転地、熱海の硫黄温泉の経験と海岸での静かな滞在などがことごとく予定表にとりいれられていたが、それだけでは不十分であったかも知れない。『外国貿易の急激な需要のために所持多あらゆる物価の高騰によって、国内は不安定な状態にある』という閣老たちのつね日ごろの主張にははたしてなんらかの根拠があるのかどうかということを自分じしんでたしかめたいとねがっていたのだ。新たな外国関係の開始や古い隔離と孤立の政策からの逸脱にともなう興奮や外国人にたいする敵意がはたして政治の中心地から離れたところに存在しているかどうかということを判断しうる機会を獲たいと望んでいたのだ。

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治安や庶民の生活、貿易や外国人に対する反応を調査する職務と、「不思議な国」でおさえられない好奇心がこの富士登山を実現させたのでしょう。なにより国内移動の自由の権利を行使する実績を作る目的が大きいとかんがえています。

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【1日目】1860年9月4日、東禅寺の領事館から東海道を出発。戸塚(五次の宿駅)~藤沢(六次の宿駅)に宿泊。

宿場の建物や庭の構造、寝具、食事や宿の主人、女中などの気質を興味深く観察し、浴室に関しては英国のものより清潔でヨーロッパ人に教訓をあたえる立場にあると言っています。

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【2日目】9月5日 藤沢~小田原(九次の宿駅)~湯元~関所の本陣泊。

ついにわれわれは、うまく富士山の巡礼の軌道にのった。『他にぬきんでて異彩をはなつ』この富士山は、ケンプファーがのべているように、『美しい点ではおそらくほかに匹敵するものがない』。

と期待と感動が感じられます。

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酒匂川の渡しでは、

『大老(井伊直弼)』が、すでにのべたように刀を手にしてかれの行列に切りこんできた武装者の一隊によって江戸の街頭で殺害されたときには、国にいたかれの家臣の一部が主君の生命をねらう陰謀があることを知ってその陰謀者たちのあとをけんめいに追いかけてきたのだが、たった一日のちがいでここへきた日に川が通行不能になってしまったとのことだ。生きるも死ぬも、かれらの速度ひとつにかかっていた。だがかれらは、この通行不能な渡しのために前進をさまたげられてしまった。だから、かれらが江戸に到着したときには、かれらが警告すれば阻止できたはずの災厄がすでに起こったあとで、かれらの主君は二度とかえらぬ人となっていた。

桜田門外の変は、1860年3月24日なので、わずか半年前の事件でした。日本の歴史が大きく動いた歴史の綾というべき、酒匂川の水量のことを言っています。

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箱根峠へは、岩の破片だらけの道で、蹄鉄つきの馬にわら靴をはかせても困難な急登で数名が落馬しています。

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湯元では

入浴民族である日本人は、入浴するためにひじょうに遠くの方からやってくる。(中略)ローマ人における浴場、フランス人におけるカフェのようなもので、堂々たる娯楽場である。(中略)公衆浴場における性の完全な混合をあげることができる。これはわれわれ西洋人にはひじょうにショッキングで誤ったことと考えられるが、実際にそうなっているのである―とはいえ、いずれは改められるべき問題である。

日本人の入浴好き文化には感心してますが、さすがに混浴にはまいったようです。米国領事ハリスの通訳ヒュースケン(1856年)とドイツ人考古学者シュリーマン(1865年)も日本滞在中に同じ感想を述べていました。

【3日目】9月6日 関所~三島泊。

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Wengenより望むユングフラウ(2017年7月撮影)。 比べる対象でない気もするが、「不思議な国」を初めて歩いて、見るもの聞くもの興味がつきなかったようです。

峠からの下りも徐々にしか前進できず苦労していますが、しかし景色はすばらしく、スイスのオーバーラントの景色と比較して

ユングフラウ氷河の高峰こそないが、植物の種類の多さと豊富さではスイスをはるかにしのぐ

と言っています。

【4日目】9月7日 三島~沼津(十二の宿駅)~原(十三の宿駅)~吉原(現・富士市)泊。夜10時頃から暴風雨となる。

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【5日目】9月8日 吉原(ここから東海道と別れ)~森山~大宮(富士本宮浅間神社参拝)泊。暴風雨。

イギリス軍艦カミラ号(司令官コルヴィル大佐)が9月2日に箱館を出航したはずだが9日に日本の太平洋岸を通過した台風で安否を心配している。

役人、奉行たちは全力サポートで毎日先回りして快適に食事や宿泊ができるよう準備していました。政府が外国要人に礼を尽くしていたことがわかります。

【6日目】9月9日 大宮~村山登山口(現・村山古道)の八幡堂~五合目あたりの山小屋(11の小屋兼休憩所が2マイルごとにある)

3人の山伏の案内人がつき、3人の山武士が装備、食糧をはこんだ。台風の痕跡にでくわす。

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【7日目】9月10日 五合目小屋より8時間かけて噴火口のふちに到着。最後には薄い空気に喘ぎながら岩肌を這い登るようにして山頂にたどり着いた。山頂の浅間神社奥宮泊。

【8日目】9月11日 山頂2泊目。

水は華氏184度(摂氏84度)で沸騰した。噴火口のふちの算定された高さは、海抜13,977フィート(4,260m)であり、最高峰の高さは14,177フィート(4,321m)であった。富士山の上のわれわれの休息所で、緯度は北緯35度21分、経度は東経138度42分と計算された。羅針盤の偏度は西3度2分。正午のひなたの空気の温度は華氏54度(摂氏12度)。

温度計、アネロイド晴雨計(気圧計)、羅針盤、六分儀、クロノメータを使用して計測し、単位は1825年に大英帝国で発行された「帝国単位」が使用されているものと思われます。

計測された緯度経度を地形図上に落してみると剣ヶ峰から西南西2746m、標高2100m地点を指します。高度は気圧計測からの換算ですが545mの誤差があります。沸点はかなり低く出ています。計算上ですと摂氏89度くらいを示すはずです。

イギリス国旗を掲揚し、国旗に敬意を表すため、噴火口に向かって21発になるまで(中略)ピストルを発射して(中略)礼砲に代えた。それから万歳三唱をし、イギリス国歌(God Save the Queen)を歌い、最後に、『恵み深い女王陛下の健康』を祝して、富士山の雪で冷やしたシャンパンで乾杯した。

(『タイムズ』紙、1860年11月29日)

日本人の従者たちが目を丸くして見守っている。

【9日目】9月12日 山頂から下山~大宮泊

【10日目】9月13日 大宮~原~沼津~三島泊。狩野川の増水で渡渉に苦労する。

【11日目】9月14日 三島~江川太郎左衛門代官屋敷~峠~熱海温泉泊。一行は来た道を三島から伊豆半島にそれ、熱海で二週間にわたってのんびりと逗留した。

その日、オールコックが唯一の家族としてかわいがっていた愛犬のスコッチ・テリア「トビィ」が「大湯間欠泉」の熱湯に触れて命を落とす事故があった。

トビィは私の召使たちのあいだに多くの友達をもっていた。(中略)別当のかしらがこれを聞いてかご製の経かたびらに犬をつつみ、とむらいをした。私は宿所の経営者に木陰の美しい庭に犬を埋葬する許可を求めた。(中略)あらゆる階級の一団の助手たちが、あたかも彼ら自身の同属の者が死んだかのように、悲しそうな顔つきでまわりに集まってきた。
われわれはこのようにして、冬の到来によって登山が不可能になる寸前に、ほんのわずかの晴天を利用して『無二の』山を訪れることに成功したのであった。(中略)だが凶事の多くの預言者たちと同じように、かれらはそのことを実証しようとしてひじょうに努力した。私は神奈川(外国奉行所)から、つぎのようなことを聞いた。(中略)その台風はあたらしの国の神聖な領域を汚した外国人に対する神々の怒りのしるしだといううわさがひろまったとのことである。しかしわたしには、このうわさは外国人が考え出したものであるかもしれないという気がしないでもない。

オールコックは相次ぐ殺傷事件や、通商交渉に対する幕府に対する態度はかなり強硬なものでしたが、良いところには客観的に評価し、視野を広くもって、目の前に起こる事態を冷静に対処できる能力にすぐれていたように感じます。

エドワード・ウィンパー(Edward Whymper)が、マッターホルンに初登頂したのが1865年7月14日ですから、ヨーロッパでの近代アルピニズム全盛の時代でした。

1862年(文久2)9月8日、英国公使館の通訳生として『アーネスト・サトウ』 が19 歳で来日し、日本各地の山々を英国式近代登山を繰り広げ、やがてその息子『武田久吉』は1905年、日本初の『山岳会』を立ち上げます。。。続きます。。。


参考資料
1)大君の都(中) オールコック著 、 山口光朔訳(岩波書店)
2)オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 佐野真由子著
3)横浜開港百五十年―神奈川・世界との交流― 神奈川県立歴史博物館
4)ヒュースケン日本日記 ヘンリー・ヒュースケン著、青木枝朗訳(岩波書店)
5)シュリーマン旅行記 ハインリッヒ・シュリーマン著、石井和子訳(講談社学術文庫)
6)くりホンレビュー くりホン キリスト教教派の森 別館
  1860年に消息を絶った英国軍艦カミラと箱館
7)函館領事ホジスン帰国に関する英国外務省記録 多田実 

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