読書メモ ラッセル『哲学入門』第一章 現象と実在
バートランド・ラッセル著 髙村夏輝訳『哲学入門』筑摩書房
現象と実在
どのように見えたか(=現象)とどのようであるか(=実在)の違い。我々はテーブルが光を反射して所々白く見えても、全面にわたって本当に同じ色をしていると信じている。
感覚によって直接的に知られるものを「センスデータ」と呼ぶ。もし、テーブルについてなにかを知りうるなら、それはセンスデータを通じてである。しかし、テーブルはセンスデータではない。実在のテーブルがあるなら、センスデータとの関係が問題になる。
実在のテーブルが存在するとして、それを「物的対象(物質)」と呼ぶ。考察すべきなのは物的対象とセンスデータの関係である。センスデータを通してしか物質を推論することができないため次のような問題が生じてくる。
1. そもそも物質のようなものがあるか
2. もしあるとしたら、その本性はなにか
五感の直接の対象は、私たちから独立には存在しないことをバークリ僧正は示した。普通の意味では「物質」は「心」と対比され、空間内にあるが、なにかを考える能力を持たないとされる。バークリはこの意味での物質を否定した。一方で、センスデータが私たちから独立な何かの存在の記号になっているということは否定しない。すなわち、この何かが心的ではないということ、心でも誰かの心が抱く観念でもないことを否定している。つまり、目を瞑ったときにも物質は存在していなければならないことを認めている。バークリは、この意味での物質を心の内のある種の観念(神の心の中の観念)、ライプニッツは群棲する魂、新ヘーゲル主義者は宇宙内の心を集めて一つにしたものだという(科学者なら膨大な数の激しく動き回る電荷というだろう)。結局、彼ら観念論者は第一の問いは肯定し第二の問いには常人とはかけ離れた答えを出している。
※「物質」は「心」と対比され云々のところで躓いてしまった。ここで言う心と対比される物質とは、たった一人の観測者・私自身(の心)と独立に存在しているということかと思ってしまったが、より大きくこの世のあらゆる観測者(の心)と独立に存在しているという意味のようだ。
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