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「今日を特徴づける一つとして、「活字離れ」ということが語られることが、いつか当然のようになりました。」


長田弘著『読書からはじまる』(筑摩書房、2021)

本棚から引き出して、「また本の本か」となかば頭を抱えました。
「本」論、「読書」論の本はそれなりの量をもっていて、何度か読み返したものもあれば、一度きりで終わってしまったものもあります。
手持ちのもの以外に、図書館で借りて読んだ本もあるのだから、もう記憶はごちゃまぜです。

でも何か書かねばなるまい。
そうおもって目次を眺め、本文をぱらぱらとやりました。

ほほう、なるほど。

しかし、数で言えば、かつてより活字の本はたくさん世に出ています。今日を特徴づけているのは、「活字離れ」ではありません。むしろ今日、読書という問題をめぐって揺らいでいるのは、本というものに対する考え方です。(p。7)

著者は冒頭の文に続けて、こう説明します。
ここまで読むと、著者の意図が少し読めてきます。
すなわち、「活字」とはなんなのか、「活字を離れる」というのはなんなのか、ということです。

活字という言葉について、わたしはこれまでさほど注意を払ったことはありませんでした。
読書漬けの子ども時代を過ごし、読書が好きなまま大学と大学院に行って本と格闘し、いまだに本に囲まれた職場で働いていると、「活字」という言葉を考えなくなります。

活字とはなんなのか。

かつてそれは、「出版された本に印字された文字」を意味していたはずです。
広義では新聞も含まれるでしょう。
手書きではない文字、印刷され、広く頒布されている文字、有償でしか手に入らない文字、そして知識と知恵を与えてくれる文字。
活字とはそういうものだったはずです。

「活字離れ」が盛んに言われていた頃、少なくともわたしの子ども時代は、「活字」の敵は「マンガ」でした。
その一世代前は「テレビ」、そしてその前は「ラジオ」でしょう。
ところがよく考えてみると、マンガのセリフの多くは印刷された文字、つまり「活字」です。
テレビのテロップに出てくる文字は、かつては字幕職人という手書きの職人がいたようですが(白黒映画時代の話ですね)、型の決まった活字です。

そして今あなたが読んでいるこれ。
インターネット上の文字は、印刷こそされていないとはいえ、型の決まった文字という点においては「活字」とかわりません。

そこで今は、「活字離れ」ではなく「出版不況」という言葉があらたに生み出されました。
文字がメインの本も、絵がメインのマンガも、いずれも「出版不況」の煽りを喰らっている。
敵は、この記事をふくめたネット上の文字であったり、動画であったりします。

動画であれば、「活字離れ」の敵と見做されるのもわかります。
ところが私のような「活字中毒者」にもなると、読む本がなくて暇になると延々とTwitter(いまはXでしたっけ。呼びづらっ)を眺め続けるということをします。
文字を追っていないと落ち着かないからです。
インスタはすぐ閉じてしまうけれど、Twitterなら延々とみていられる。
これのどこが「活字離れ」でしょうか。

話を本文に戻しましょう。
著者は「本というものに対する考え方」について言及します。

はじめの章は、本という「型」。
つまり印字され、製本され、「本」という物体として並んでいる本のことを語っています。
本屋や図書館にあって、「絶対に読まない」本がどれだけ大切か。
一生付き合える、友人のような本がどれほど大切か。
決まったタイミングで決まった本を読むことの習慣。
そういった、「本とのつきあいかた」に対する姿勢が変わってきてしまっているのではないか、と。

また自分の話にもどりますが、わたしは電子書籍をそれなりに利用している反面、「これだけは紙で持っていなければならない」と思って紙で買っている本もあります。
さらに酷いことになると、「発売日当日の朝の通勤電車で読みたいから」電子書籍を朝イチで買い、「紙でゆっくり読みたいから」帰りに紙の本を買い、「豪華版が出たから」観賞用にサイズ装丁違いの本を買います。
そういう本は、きっと「一生のつきあい」のある本になるでしょう。

また、小さいときに買ってもらって、大切にしている本がたくさんあります。
ほとんどのものが書皮に包まれていて、それがぼろぼろになって千切れても、新しいカバーに変えようとは思いません。
書皮は、その本をどこの本屋で買ってもらったかの記憶だからです。
わたしは「買ってもらった」記憶ごと、その本を大切にし続けるでしょう。

さて、おしゃべりが過ぎましたね。
この本は続けて、「椅子」という読書にとってのハードウェアの大切さを語り、「子どもの読書離れ」について踏み込み、これからの「読書」「本のあり方」について述べています。
どの章も、ひとつひとつ細かく語りたくて仕方がありません。

ということはつまり、本屋で目についたこの本をレジに連れて行ったわたしの目に狂いはなかったのでしょう。
生涯の付き合いになるかはわかりませんが、この本がもたらす思考はまだまだとどまるところを知りません。

椅子、椅子ね。
読書にとって椅子が大切、というのは全面同意です。
いつかまた、椅子についても語る機会が来るといいのですが。


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