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鋼のような美しさ ー 改めて『魔性の子』を読む

『魔性の子』の高里要と『白銀の墟 玄の月』の泰麒は、地続きで存在している。

久しぶりに『魔性の子』を読み返して、強くそう感じた。

昨年、18年ぶりの長編新刊ということで沸いた「十二国記」シリーズの『白銀』は、文庫4冊巻という超長編だったことでも読者を驚かせたが、何よりも泰麒の変わりように、誰もが目を見張ったのではないかと思う。
大勢の読者を李斎化させ、「泰麒…… 大きくおなりになって」と呟かせたのだが、その変わりようには肝を潰した人も多かったのではないだろうか。
わたしもその一人だ。
これはもはや構造の妙と言えるのだが、『風の海 迷宮の岸』『黄昏の岸 暁の天』と、「十二国記」の延長で『白銀』を読むと、わたしたちは泰麒の変貌ぶりに驚かされる。
泰麒と周辺の世界との“段差”に、読者もはまり込んでしまうのだ。

「十二国記」シリーズは、『月の影 影の海』を第1巻として講談社ホワイトハート文庫で刊行されていた。シリーズ中8冊が、元々ホワイトハート版で出ている。
異界に飛ばされた高校生、中嶋陽子が主人公で、周辺人物に焦点を当てたスピンオフを挟みつつ、『月の影 影の海』→『風の万里 黎明の空』→『黄昏の岸 暁の天』と、異界で王になった陽子の成長を描く物語だ。
2012年から新潮社に移管されたのだが、その際に“第0巻”としてシリーズに追加されたのが、もともと新潮文庫で出ていた『魔性の子』である。
こちらは教育実習生の広瀬を語り手に、異質な高校生、高里要の周囲で起こる怪奇現象を描いたもので、当初は「十二国記」出版前でもあり、単独のホラーファンタジー小説だった。

ここでざっと、「十二国記」シリーズの初出の年をおさらいしてみよう。
☆が泰麒/高里回、◎が陽子回である。短編集は、関連の話が含まれているものに印をつけた。
☆『魔性の子』/1991年
◎『月の影 影の海』/1992年
☆『風の海 迷宮の岸』/1993年
『東の海神 西の蒼海』/1994年
◎『風の万里 黎明の空』/1994年
『図南の翼』/1996年
◎☆『黄昏の岸 暁の天』/2001年
☆◎『華胥の夢』(短編)/2001年
◎『丕緒の鳥』(短編)/2013年
☆『白銀の墟 玄の月』/2019年

『華胥の夢』以降の時間差がえぐい。読者は18年間、よく耐えたと思う。

「十二国記」シリーズとしては、『風の海』が泰麒の初出となるのだが、あの『魔性の子』の高里要がこのあどけない少年だと、あのおろそしい化け物がこの従順で健気な女怪だと気づいた読者の衝撃は、いかほどだったのだろうか。
リアルタイムで実感したかった。めちゃくちゃくやしい。
もっとも、まったく無関係のものとして出版社さえ別で刊行されていたのだから、「十二国記」から『魔性の子』に行った勢と、『魔性の子』から「十二国記」に来た勢では、受ける印象も抱く感想も違うだろう。
わたしは「十二国記」から入った側なので、『魔性の子』も『黄昏の岸』の裏話として読んだのだ。ホラーというよりも、泰麒がかわいそうで仕方がなかった。

上記の一覧を見れば分かるとおり、「十二国記」シリーズは、実は陽子と泰麒の二本立てだが、二者の扱いは大いに異なっている。
陽子は、彼女自身が主体となって物語を動かしていくが、泰麒は物語の中心にありながら、動くのは彼の周囲なのだ。

泰麒が一番いきいきと描かれている『風の海』でさえ、女仙の蓉花または女怪の汕子の視点が、物語の枠組みとなる。
あいつは台風の目だ、と『魔性の子』で称されるとおり、泰麒は物語の中心にいながら、常に静の存在だ。ただそこにいるだけで、周囲に嵐を引き起こすのが、泰麒という存在である。
物語は、周りの人間が”彼“をどう理解し、”彼“をどう扱うか、によって進行していく。
泰麒が自ら動くのは、物語の終盤、泰王が関わるときだけなのだ。

泰麒の物語は、彼と世界との“段差”によって進行していく。
はじめに、『白銀』を読むと泰麒の変貌に驚く、と書いたが、それは読者であるわたしが、「十二国記」側の視点で読むからだ。
もっと言うと、『風の海』と『華胥』収録の「冬栄」で描かれている、いとけない泰麒の姿を慈しんでいた視点で、その泰麒を失って決死の思いでもがいた李斎の視点で、彼を見るからだ。
『黄昏の岸』で泰麒が帰還したときも、『白銀』で泰麒がついに王宮に乗り込むまでも、李斎は泰麒を「あのいとけない幼子」として見ていた。普通に過ごしていても、7年間の成長によるギャップは激しい。10歳の子供と17歳の少年では、見た目も性格も変わっていて当然のはずなのに、なまじ麒麟という生き物が”成長すると外見変化をしなくなる”ために、李斎も読者も、泰麒が成長する生き物げあることを、をすぐに失念してしまう。

『魔性の子』の高里要は、自分が異質であることを受け入れて、周囲で起こる“祟り”を仕方がないこととみなしていた。人が傷つくのは悲しい、でもそれは、自分にはどうしようもないことだ、と。
それが、広瀬という賛同者を得て、少しずつ変わっていった。自分を理解し支えてくれる人までも巻き込んではいけない、と次第に思うようになった。
暴走した使令による報復が見境がなくなるにつれて、高里はそれを止める術を持たない自分を責め、自殺することですべてを終わらせようとする。これは、事態が理解できない彼に唯一できた抵抗の仕方だ。
高里にとって心の支えだったのは、自分には帰るべき場所がある、という確信だった。自分を支え、理解を示してくれた広瀬でさえ、エゴのために動いていたのだというどうしようもない事実を前にしても、彼はぶれなかった。自分は帰らなければならない、という強い信念が、周囲の災厄も、信じたかった人の無理解も超越していた。
高里はこのとき、自分が帰ることによって引き起こされる災害を、“必要悪”として受け入れた。自分のために死ぬ人がいる、という事実を引き受けた。
この覚悟が、『白銀』の泰麒に引き継がれている。

元の世界、本来自分がいるべき世界に戻っても、泰麒の周囲は変わらなかった。
自分がいるせいで、自分を助けてくれた人たちが被害に遭う。自分の存在を、自分が何を考えているかを理解してくれない。
一番近くにいる李斎でさえ、「幼い泰麒」を守ることに一生懸命で、異世界で惨たらしい7年を過ごしてきた自分の経験を、理解しようとはしなかった。
そんな状態で、『白銀』はスタートする。

『白銀』においても、物語を進めるのは李斎であり、泰麒が一行から離脱してからは、彼に付き従った項梁である。李斎はもとから「いたいけな泰麒を守る」というスタンスで行動しているため、泰麒が単身王宮に乗り込んでもその意図を理解できない。彼女には彼女の理想の泰麒像があって、それに縋らなければ立っていられないほど、追い詰められている。
一方の項梁は、泰麒の為人を知らないが故に、李斎よりもストレートに“現在の泰麒”を見ることができるが、同時に泰麒の本質に疑いを持ってしまう。それは、項梁がイメージする“麒麟”という生き物と、目の前の泰麒が違っているからだ。

泰麒はただ、自分を信じるように、としか言えない。
自分に対して先入観を持つ人に、理解してほしいと言うことが憚られるかのように、自分を信じろ、としか言わない。
それは読者にとっても同様で、泰麒が驍宗を裏切らないことは信じられても、果たして泰麒が阿選を騙しきれるのか、信じることができない。
麒麟という属性を裏切る行動が可能になった泰麒を、どこまで信じていいのか分からなくなる。
何が、彼をそこまで苛烈にしたのか、分からなくなる。

だから、泰麒が独白の中で、先生、と広瀬に呼びかけたことが、衝撃的だった。
『魔性の子』は『白銀』の28年前に出版された本である。読者にとっては、だいぶ過去の出来事だが、作品中ではたかだか1年前のことだ。
泰麒がこちらに戻ってくるきっかけとなった出来事、高里要に最後に付き添った人物、“彼”本人を理解しようとしてくれた人。その広瀬が、泰麒の原動力になった。
高里は自死という消極的な償い方しか思いつけなかったが、泰麒は自らの命を削って責任を全うする、という償い方ができるようになる。

その様が、あまりにも美しくて、そして悲しい。

『白銀』初読時に感じた泰麒への違和感は、改めて『魔性の子』を読んでだいぶ緩和された。
この泰麒は、たしかに高里要の延長として存在している。
読者の印象に強く残っているかわいらしい泰麒は、シリーズが始まる前から、すでに過去の存在だったのだ。わたしたちは、すでに存在しない、過去の泰麒の影をずっと追い求めていた。

もう一度、『白銀』を読んでみよう。『魔性の子』で覚悟を決めた、泰麒の物語として。


以下、完全に蛇足。

『魔性の子』にしろ『白銀』にしろ、延王のハイパーチート感、すごすぎませんか?
もう延王さえ出れば勝てる、という刷り込みがあるので、『白銀』で延王が出たとき涙が出るかと思いました。
『魔性の子』の時点で、そういう下地が作られているのが、なんともはや…… このとき、まだ「十二国記」は出ていないとは言え、構想はかなりしっかり出来ていたんですね。その構想が破綻せずに最後まで貫かれているのが、素晴らしすぎると思います。

あとね、やっぱり『白銀』表紙の泰麒の美しさね。ほんとうに美しい。『風の海』はかわいらしいんだけれど、『白銀』はもうほんとうに美しい。


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