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「穏やかな日暮れだった。」

ホラーが苦手である。

映画館で、突然ホラーの予告編が流れようものなら「ふっざけんな」と心中罵倒の嵐だ。
ホラーが苦手なのだから、予告もなくホラーを流さないでいただきたい。
とはいえ、「これからホラーの予告が流れます」などとテロップが出ても、対処できないので困る。

ホラーが苦手なくせに、ホラー小説を読み、ホラー映画を見る自分は、実はホラーが苦手ではないのでは?
と思ったりもするが、やっぱり苦手だ。
自ら進んで見ようとは思わない。

読む、または見るきっかけは、「作者の他の本を読んでいるから」とか、「この映画はネタとして見れる」という前情報があったとか、そういう理由ばかりだ。

阿部智里著『発現』(NHK出版、2019)

そんなわけで、八咫烏シリーズを読み切って飢えていたわたしは、阿部智里氏のホラー小説に手を出した。

すでに小野不由美主上(十二国記シリーズ)のホラーを読んだことがあったので、いけると思ったのだ。
「あの」八咫烏を書く阿部さんのホラーとは、いったいどんなどんでん返しが待っているのか。

そんなワクワク感と、ホラーに対するびびり(怖いもの見たさ)を抱えて、本書を読みはじめた。

どんなジャンルにも、ジャンルごとの「お決まり」がある。
殺人現場を勝手にうろつく探偵がいても警察が文句をいわなかったり、名指しされた犯人はみずからの悪行を語ったりするアレだ。
では、ホラーの「お決まり」とは何か。

わたしの少ないホラー歴からすると、それは概ね2種類に分かれる。
ひとつ、人外恐怖感を最高に高めたあと、それを(超常現象だとしても)説明可能に解体していくパターン。
ひとつ、人外恐怖感を最高に高めたあと、それが説明可能かと見せかけて、不可解な現象のまま終わらせるパターン。
前者は構造がほぼ推理小説ににており、後者は幻想小説に近い、と思う。

阿部氏のホラーを読んでわかったのは、わたしは圧倒的に「前者向き」であるということだ。
後者、ほんとうに無理。
無理というか、読後のもやり具合がどうにもよろしくない。
ぽん、と放り出されて終わったような気分になる。
放り出されたあと、こちらは一体どうすればいいのか。

八咫烏シリーズとはずいぶんと趣の違う話の展開に、作者の引き出しの深さに唸ったりと、メタ的に楽しんだ部分は多い。
文章による、じわじわと忍び寄る怪異に、脳内で何かの物質がドバドバ湧き出る感覚を覚える。
そして唐突に、あまりに唐突に、ぽん、と投げ出された。

あれ?
これで終わり?

「どんでん返し」を期待していた分、肩透かしをくらったような、え、まだちゃんと説明受けていないんだけど?
という感情がじわじわと広がる。
結局この怪異はどうなるんだ。

思えば、八咫烏シリーズの『玉依姫』も、似たような終わり方ではあったように思う。
「神」という名の呪いを、人智を超えた力を、「それそのもの」として受け入れてしまう。
そこには、外的にわかりやすい説明もなく、ましてや被害にあった人への救済もなく、ただ、「その存在」を受け入れてしまう人がいる。

そうやって、怪異は代々と受け継がれていく。

そういう意味で、『発現』は日本的な、災害を受け入れ流してしまうような日本的気質が、よく現れた作品だと思う。
怪異は消えない。
ある日発現し、治ることがない病のように、脈々と引き継がれていく。
血によって引き継がれる怪異、というのも、とても日本的だ。
怪異が場所ではなく、「家」に憑くのだから。

そんなわけで、ぶっちゃけ『発現』はわたしの苦手なタイプのホラーだった。
『残穢』は全然読めるけど、『発現』は読み返しなしだなあ、と思う。

日暮れ、夕方、黄昏時。

誰そ彼どき。

ホラーにおいて、夕方は鬼門だ。
穏やかな日常と恐ろしいの非日常が交わり、区別のつかなくなる時間。
穏やかな風景の向こうに見える人影は、一体誰なのだろうか。

これもホラーの「決まりごと」のひとつだろう。


ところで、ネタとして見たホラー映画は、「来る」と「ミッドサマー」でした。

「来る」は霊能者アベンジャーズに大爆笑し、一番怖いのは人間、というホラー体験をしました。

「ミッドサマー」は最初から最後まで胸糞でしたが、「山田と上田のいないTRICK」という前評判のとおりで、ギャグ要素のないTRICKは本当は恐ろしいんだなと思いました。



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