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そのとき、読者もまた演奏者なのだ

文字がはずむ。

雨つぶのようにころがって、はじける。
光をうけて、きらきらと輝く。

波のようにおしよせては、ひく。
身体のうちを、ひたひたと水が満たす。

光りかがやく森を、星のきらめく夜空を、ステージを照らすまばゆい照明を。

『蜜蜂と遠雷』を読んでいるあいだ、わたしの目と文字のあいだには、さまざまな光景がちらついていた。


音を文字という記号で表現するのは、不思議なこころみだ。
もちろん、文字は言葉を写しとったものであり、言葉とは音ではあるけれど。

けれども「音楽」という非言語の芸術を、「小説」という言語の芸術で表現するとき、いったい何が起こっているのだろう。


音楽を文字で表現する方法は、いくつかある。

タラリラ タラリラ ランランラン
とリズムと質感をまねてみたり、
ド ド ソ ソ ラ ラ ソ
と階名を並べてみたり。

タラリラでは音の高低もメロディーもわからないし、ドドソソでは単純な旋律しか 表せない。
このふたつが合わされば、その曲を脳内で再生できるかもしれないけれど、それはもとの曲を知っているのが大前提だ。


『蜜蜂と遠雷』を読んでいるあいだ、わたしの耳には「音楽」はなかった。

ただ単に、音楽知識が足りていないのである。
クラシックは昔からなじみはあるのだが、曲とタイトルが結びついていないので、超有名どころの作品でも聴くまではわからないことが多い。
ついでにいうと、ピアノ曲にはほとんど縁がない。

本には、目次のほかにコンクールのプログラムがびっしりと書き込まれている。
見る人がみれば、ああ、あの曲を弾くのか。ふうん、こういう組み合わせか。
と思えるのだろう。
わたしにはそれがピンとこない。

かわりに、わたしの耳に響いていたのは、文字が奏でる音だった。

蜜蜂の羽がたてる音。
街の喧騒。
人々のざわめきと緊張感。
夜の海。
ホールに響く音合わせ。
草原を渡る風。


音楽を文字で表現するとき、それは風景に、情景に、物語に、姿を変える。
その曲が与える印象や感情が、一瞬の絵となり、一連の映像となって、目の前に迫ってくる。

その点においては、わたしも確かに、音楽を体験していたのだ。
耳では聴いていなくても、その曲の与える体験を、文字が与えてくれる。

作中で、「ライヴ感」という言葉がよく使われていた。
あらかじめ譜面に書かれた、100年以上前に作られた曲ではなく、「いまここで」はじめてその曲が生まれ演奏されているような感覚。
クラシックでありながら即興のような演奏に、聴衆はただただ圧倒されるばかりだ。

天才たちの演奏を読みながら、わたしもまた圧倒されていた。
その力強さ、繊細さ、曲の世界観を描写する力、音楽をとおして世界を掴もうとする情熱、その先に何が見えるのか、渇望する心。
そういったものが、どっと押し寄せてきて目の前を埋め尽くす。


物語を読むこととクラシックの演奏は、どこか似ているなと、ふと思った。
何年も前に誰かが書いた物語は、読まれるまでは、本として存在していながらも、存在していない。
読者が文字を追いはじめ、その世界を認識して初めて、物語はそこに存在する。
それが慣れ親しんだいつもの世界なのか、無味乾燥な文字の羅列になるのか。
それとも今まさに紡がれて起こっているできごとになるのかは、読者にかかっている。


音楽が文字で描かれるとき、そこには耳に聴こえるメロディーは存在しないかもしれない。
それでも、音楽が内包する世界は、言葉としてそこに存在している。
そして読者がページをめくるたびに、物語として新しく生まれてくるのだ。


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