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「ここから、指輪物語の第三部が始まる。」

あれ?
こんなこと、第二部には書いてあったかしら?

と思い返してみたら、わたし第二部の『二つの塔』のときは、手元にあった文庫本を使っていたのかもしれないですね。
あれー?
でも「これまでのあらすじ」が第一文なら、それを使うはずなんだけど。

J.R.R.トールキン著、瀬田貞二・田中明子訳『指輪物語 王の帰還(上)』(評論社、1992)

『指輪物語』のすごいところは、この「あらすじ」でもそうですし、各部の終わりでもそうですが、「この巻では〜〜が語られる」と先んじてネタバレをし、第三部については「指輪所持者の使命達成である」と落ちまできちんと毎回説明してくれるところです。

先の展開が分かっていても、大団円に終わると分かっていても、手に汗握り背筋を震わせ、熱く燃えながら読んでしまう。
それが『指輪物語』という作品です。

騎馬戦、それは浪漫

これはことあるごとに言っているのですが、戦争は騎馬戦までが華です。
剣と弓、槍と斧、騎乗した騎士。
投石機までは籠城戦においてはまあまあ許せるとして、爆薬の使用はいただけません。

もちろんすべて、「物語としては」ですが。

物語であれば、敵を討ち取った騎士は名誉を得、たとえ討死しようとも誉れのうちに眠ることができます。
人馬一体となった苛烈な突撃、決死の戦い。
そういったものにロマンを覚えます。

なので、ペレンノール野の戦いは大好物です。

「角笛でした。角笛です。角笛なのです。」(p.166)

この三度繰り返された「角笛」という言葉ほど、新たな希望を運んでくるものはありません。
そしてわたしは、この箇所において日本語の語尾が与える力に、感嘆の念を禁じ得ません。

マクベスに思いを馳せる

トールキンは言語学、その中でも古英語の教授として教鞭をとっていましたが、シェイクスピアは当然の教養だったのだろうと想像に難くありません。
わたしはシェイクスピアの『マクベス』を読んだのは大学に入ってからですが、非常に驚いたのは、「このシーン知ってる」という箇所が少なくても2箇所、『指輪物語』にあったことです。

ひとつは、「森が動く」。
マクベスは、三人の魔女から「バーナムの森が進撃してくるまでは安泰だ」といわれていました。
森が動くことなどあり得ない。
そう思っていたマクベスですが、イングランド兵が木の枝を持って身を隠しながらスコットランドに攻めいる様が、まさに「森が進撃してくる」かのようでした。
もうひとつが同じく魔女から与えられた、「女から生まれた者に殺されることはない」という予言。
かれはその言葉から、自分を殺せる男は一人もいないとタカを括っていました。
しかし、彼の前に立ちはだかったのは、帝王切開で生まれた男、通常の出産とは別の方法で生まれマクダフでした。

森が動く、は『二つの塔』で行われた、フオルンによるオークの掃討とファンゴルンたちのアイゼンガルド襲撃です。
言葉通り森が動き、木々の牧人であるエントの行進によって、堅牢な塔は包囲され、サルマンの戦力は敗退しました。

そして『王の帰還』において、ナズグルの首領であるアングマールの魔王は、「生き身の人間の男には殺すことができない」とされていました。
おそらく原文では、“man”という語が当てられていたのでしょう。
これは「人間」とも「男」とも読める語です。
だからこそ、ガンダルフは自らがかれを相手どるつもりでいました。
ところが、魔王の前に立ちはだかったのは、デルンヘルムに身をやつしたエオウィン姫でした。

「しかしわたしは生き身の人間の男ではない! お前が向かい合っているのは女だ。」(p.187-188)

この場面も、身震いせずにはいられません。
そしてアングマールの魔王は、「人間ではない」ホビットのメリーと、「男ではない」女のエオウィンによって倒されたのです。

わたしが気づいていないだけで、こういった場面はたくさんあることと思います。
でも気づこうと気づくまいと,その場面の感動や驚きが減じることはないと思うのです。
作者自身も、わざわざ「ここはあの作品のあの部分を使おう」と思ったのではなく、単に脳みそに仕舞い込まれていたモチーフのひとつが、勝手にこぼれだしたのだと思います。
トールキン自身が後書きで触れているように、物語の「受容性」と「寓意」は違います。
前者は、読者がその物語をどう受け取るかの問題で、後者は、作者が意図的に裏のメッセージを仕込むことです。
わたしがマクベスを読みながら指輪物語を思い出したのは、単にわたしがそのときそのように物語を「受容した」だけにすぎません。

いやでも、やっぱり絵文学一般の教養を持っていたほうが、他作品を楽しめるというのはあると思います。
あまりに有名なモチーフは、意図的にしろ無意識にしろ現れ、物語にそれなりの意味を与えるからです。

もしエオウィンが残っていたら

別の作品の話になりますが、ローズマリ・サトクリフの『ケルトの白馬』という物語があります。
内容はもうほとんど覚えていないのですが、わたしはこの話を読みながら、「エオウィンがもしエドラスに留まっていたら、こうだっただろう」と思って読んだことだけは覚えています。
エオウィンに本来与えられた命令は、女子供の指揮をとり、王家の最後の一人として民を導き王宮を守ることでした。
長いあいだ弱りゆく老人の介護に囚われ、城に閉じ込められていたエオウィンにとっては、それは緩慢な死を意味する命令でした。
そして彼女はその命令に逆らい、男のふりをしてマークの王セオデンの最後の出陣について行ったのです。

それはひとつの勇気の示し方で、事実エオウィンがいなければ、アングマールの魔王は滅びなかったかもしれません。
でもエオウィンが王の命令を守って国に残っていたら、というあったかもしれない世界線を、『ケルトの白馬』は示してくれました。
話の内容はまったく覚えていないのですが、その感覚だけは鮮明に覚えていす。

「鷲たちが来るぞう!」

めでたしめでたしで終わった物語の、ハイライトを思い出すのは気分を高めてくれます。

「鷲たちが来るぞう!鷲たちが来るぞう!」

ピピンは意識を失う直前にその言葉を聞き、ビルボの冒険のハイライトである五軍の戦いに思いを馳せました。

「鷲たちが来るぞう!」

それは希望の到来の予兆でした。
ピピンだけでなく読者も、この言葉で終わる『王の帰還』の上巻を、希望を持って終えることができるように思います。
たとえ下巻で、あらためてフロドとサムの望みのない旅を読むことになると分かっていても。
そして、あらすじですでに「指輪所持者の使命達成」が約束されていようとも。


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