推しは神様

わたしは「推し」のいるいわゆる「オタク」で、自分の推しのことを「神様」だと形容しています。
勿論人間だし、普通に戸籍を持って生活をしていることはわかるんだけど、ステージにいる彼らが放つ輝きは紛れもなく神様のそれだと思うのです。
でも神様だと思う理由はそれだけじゃなくて、オタク行為が信仰に近いと考えているからです。

わたしは昔読書が趣味で中学校の図書館にある本を殆ど読んでいて、その中にあった西尾維新先生の「傷物語」のことをたまに思い出します。
吸血鬼であるヒロインが村の人間に「神様」と認識、信仰されることで存在が揺らいでしまう。という展開で、要は怪異という存在は神様であれ幽霊であれ、周囲による認識や信仰が強ければ強いほどその力は強くなる。ということが書いてありました。あくまで小説の中の設定だけど、本当にそうだと思った。城平京先生の「虚構推理」でもそのようなことが書いてあったし、詳しくないけどそういう怪異的なものの界隈では有名な話なのでしょうか、とにかくわたしはこの理論を信じて大人になったわけです。

神様は信仰者が多かったり、その信仰が厚ければ力が強くなり、信仰者の認識の仕方次第で存在の定義が揺らぐものである。と解釈したわたしは高校生になってオタクになり、これはアイドルやタレント、「推し」と言われる存在にも適用されると思ったのです。
ファンがアイドルを宝物のように扱えば宝物に、優しい人思えば優しい人に、要は社会にそのように見えるのではないかと。

だから認識を間違えちゃいけない。
自分の欲求をぶつけていい相手だと、そうファンが扱えばそのように世の中からみえてしまいます。下品に扱えば下品なコンテンツとして見えてしまうわけです。

昔オタク仲間のお姉さんが「推しとオタクも人間関係」と仰っていてすごく感動しました。向こうも気持ちを持った人間であることを踏まえて、行動しなければいけないな…と思います。
神様とはいえ、実際は気持ちをもった人間であることを忘れてはいけないし、発言をする前に、そのように搾取されることが気持ちの良いことか、考えた方が良いんじゃないかな、と感じる文を度々ネットの海で見かけます。タレントであることはそれを我慢することを強要される存在であるべきだとは私は思いません。

「推し」の世の中での在り方はファンが左右します。ファンは推しの鏡、推しはファンの鏡なのです。

好きだからこそ、神様だからこそ。
偶像崇拝かもしれないけれど、相手を思う気持ちを大切に、気持ちの良い信仰、応援を心掛けるべきだと心底思います。

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