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咲き方



久しぶりに電車に乗って栄えた街を目指している。
ビルの隙間から見え隠れする大きくて丸い夕日が、気怠げな私の背中を押した気がした。学校に通っている時は、家が近くなると見えるこの景色が大好き。もうすぐ春休みが終わるという今日、この景色が見れたことを少しラッキーに思う。



改札を抜けた時には桜が見えたな。桜は1年に1度人に注目される。花が咲いていなければ何の木か見向きもされないのに。実際、毎年この季節になると夜桜を見に行くし。少しだけ羨ましく思うけど、世に春を告げるためにコツコツと生きているんだろうなと思うと、すごく強く見える。隠れて努力している人みたいで。こんなに桜の木があったのか!と驚かされる。


人と植物とは生き方も亡くなり方も全然違うけど、なんか、何だろうな、"想い"?みたいなものが似ているように思う。植物の気持ちは聞けたことがないけれど。


死といえば、2年半前か。


祖母が亡くなった頃からか、過剰に意識するようになった。



高校最後の文化祭には出れなかったけれど、友人が私の写真を持って会場中を駆け回ってくれた。私が遺影かよって無理して不謹慎極まりないツッコミをしたのも覚えている。



祖母には元気なうちに思うように会いに行けなかった。その反動か、寝たきりで会話のできない祖母の見舞いに毎日行った。



今でも後悔している。反省している。


できることをしなかった。
目の前の勉強より、大切な人に会える日に会うということを。


だから私はいつでもすぐ出向くようになった。いわゆるフッ軽。気分が乗らない時はもちろんあるけれど。(そんな日は気まぐれに無理したりしなかったり)


私が1時間後に死ぬかもしれない。明日会えなくなるかもしれない。


家族が家を出る時には、念を押すように行ってらっしゃいの後にもう一度気をつけてねと言う。


考えすぎだよ、分かっているけどそれでも足りない。


生まれて死ぬまで何を成し遂げても残せたものは分からない。残せる時間もわからない。

馬鹿げているかもしれないが、あわよくば歴史の授業で習うような人になっていたい。

私が祖母を忘れないように、宇宙までもが私を忘れないようなことを生み出せたらな。


死ぬってなんだろうね。


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