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私たちのもの。映画『ルックバック』を観て思ったこと

机に向かっている。今日は久々にゆっくりと研究に没頭している。
目の前には分厚い研究書が開かれている。やっと半分を読み終わったところだ。この本を読み終えたなら、新しい論文に着手しようと思う。

とはいえ。少しくたびれた。
栞を挟み、本を閉じる。
そして大きく伸び。腰もストレッチ

振り返ると、本棚が見える。
その端に立てかけられているのは、『ルックバック』。
そういえば、映画を観てきたばかりだ。

感想をNoteにまとめながら息抜きをしようと考え、現在これを打ち込んでいる。とりとめもないものかもしれないが、お付き合いいただければ幸いだ。

さて、

「私小説」が好きだ。

話の筋で魅せる作品、キャラクターの特徴で魅せる作品、どれもこれも好きだが。やっぱり、作者が何かを言っている作品が好きだ。

こいつも同じだ。こいつも、人間なのだ、と思う。
そうすると、急にその作者のことが愛おしくなってくる。

生の本質は寂しさだと思う。
承認欲求やら、自己愛やら、何やらかっこいい言葉なんか抜きにして、「ねえ、話聞いて聞いて!」と声を上げるのが最も人間らしい所作に思われる。

その点、原作を初めて読んだ時から、『ルックバック』が好きだ。
藤本先生の思いが作品に詰め込まれているし、それが燃料のように物語を前に進めている。

映画の話をする前に、少し、原作に思いを馳せようと思う。

『チェンソーマン』が半ば伝説のように、半ば吐瀉物のように日本一の漫画雑誌の誌面から消えて、しばらく経った後の作品であった。

これを書かないと、次には進めなかったのではないだろうか。

藤野と京本。
自分の名前を真っ二つにしている点が清々しくて良い。
しかも、一定の種類の男性にありがちな自分を少女にしてしまうという点も、むしろ古き良き匂いを残すものとして趣深い。

そして、自分の半身には青春の思い出が埋め込まれているのも、賛否はあるかもしれないが、私は好きだ。半身が引きちぎられるほどの思いを感じたからこそ、先生は『ルックバック』を書かねばならなかったのではないかとも思える。

私だってそうだ。
中学生の頃の休み時間には専ら『けいおん!』の話をして、先輩からおすすめされた『CLANNAD』で泣いて。ニコニコでコメントのみんなと『メイドラゴン』で笑って、OPで弾幕打って……、半身とまで行くかはわからないが、自分を形作るピースの一つに間違いない。

だから、あの日のことを思い出すと、いつもやるせないし、やってられないなと常に思う。これを読んでいるあなたも、そうかもしれない。

後半、藤野の背中からは常にこの「やってられないな」が滲み出ているように思う。

「描いても何も役にたたないのに……」という台詞は、京本の死を受け止められない藤野の自責の念でありながら、それでも『ルックバック』を描かねばやってられない藤本先生の独白のようにも思える。
(単行本になった際に差し替えられた台詞を鑑みれば、むしろ創作することで誰かを傷つけることになる可能性すら示唆しうる)

それでも、私たち読者はわかっている。
藤野や京本が描いてきたものが、決して「役にたたない」ものなどではなくて、とても尊くて、かけがえのないものであることを知っている。彼女たちの出会いのきっかけであり、青春であり、人生であることを知っている。

藤本先生が描くことで、誰かの心が動くことを知っている。
心の片隅にある「やってられない」が誰かと共有されることで救われる人もいることを知っている。
そうやって誰かの心を動かし、誰かの共感を生む作品が、この世には必要であることを、わかっている。

だからね。
時には、こちらを振り返って、話をしてくれたって良いのだ。

あなただけが悲しいわけではない。悔しいわけではない。
やってられないのは、私だって同じだった。

だからこそ、私はあなたの話が聞きたかったし、聞けて良かった。

一方で。
藤本先生が出した結論は、ただ粛々と創るということであった。
この点は映画でもきちんと継承されているように思われる。

さて、長い前置きが終わって。
映画の話をしよう。

私小説的であった原作とは対照的に、映画は「私たちの」『ルックバック』というようなものであったと感じる。

58分という中編であるという名目で、料金は一律1700円。
名目に関しても納得できる部分だが、払った身としては、創られたものに対する適切な対価を淡々と支払っているというような印象を受けた。

『ルックバック』という作品が持つ、「私たちのもの」感がそうさせるのだろうか、商売気を全く感じない。グッズ一つ一つを見ても、無理なタイアップ等を避けたような印象を受け、「欲しければ買ってください」というようにショップの隅に並んでいるように思われた。

それが作品に対する製作陣の愛から来るものなのか、愛されている作品を汚さないようにする配慮なのか、炎上に対する事前の防御策の結果なのかはわからない。考えすぎなのかもしれない。

いずれにせよ、この『ルックバック』という映画は「私たちのもの」になることで、藤本タツキの独白を大きく超えて巨大化していたように思われる。これを映像化しなくてはならなかった製作陣は、いかほどのプレッシャーを背負っていたのだろうか。凡そ斟酌しかねる。

冒頭。映画は空中で旋回、落下するカメラから始まる。
そして、カメラはそっと藤野の背中を映し出す。

”Don't”の文字が意味深に配置された黒板を背に、教師が学校新聞を配る、あの印象深いコマから始まる原作とは異なる冒頭が用意されていた。

藤本先生の出した、ただ粛々と創るという結論に寄り添うかのように、「カッカッカッ」という鉛筆が紙の上を滑る音が鳴り響く。

夜中まで明かりの灯った作業部屋、机に向かう藤野の姿は、世の中に数多と存在する「机に向かう私たち」の象徴にも思えた。もしかしたら、監督を始めとする製作陣の姿なのかもしれない。

出来上がったもの、こそ評価の対象となる。
一方で、その裏には「机に向かう私たち」がいる。
あなたの努力は誰かが見ているよ、と励ましてくれているようにも思えた。

声が付くことで、より味わい深く感じる場面も多かった。
学校新聞との別れを機に、淡々と進んでいった藤野の小学校生活の最後に、切り裂くように飛び込んできた「藤野先生!」の声は、実際に音で聞いてみると、人生が変わったその瞬間に立ち会ったという高揚感を感じた。

全編通じて芝居がとてつもなく良かったか、と言われるとわからないが、全編通じて芝居のチューニングは間違いなく良かった。あれ以上でも、あれ以下でも、声が邪魔になってしまうように思える。

特に、原作ではある種、作者の失った半身のメタファとして感情移入しにくかった京本に心を掴まれてしまった。部屋を出て街で遊ぶ喜び、帰りの電車での会話の満足感、背景美術の面白さに気づいた時のあのわくわく。夢や選択肢に溢れた人生が突如終わる理不尽。

幾つか他人の感想を読んだりもしたが、ちらほら「京本の扱いが薄い」と述べる声もあった(シナリオ上仕方ない気もするが)。キャラクターを記号から人間にする、ということはそれだけ、「もっと彼女のことを知りたい」という観客の熱を呼ぶことであると思う。だから、むしろ、それらの声は批判ではなく、キャラクター造形や芝居の勝利のように感じる。

映画を観た直後は、確かに藤野に感情移入しているわけだが、こうやって感想を書く今になると、京本に対する喪失感が込み上げてくる。

それは決して何かの出来事を振り返るものではなく、京本という1人の若者の人生が途絶えたことに対する感情であった。
(エンディングでやや「泣かせに来すぎ」なBGMをかけたあたりはもやもやした。彼女に対する鎮魂歌は、むしろ藤野のペンの音であるべきなように思う)

そう考えると、原作『ルックバック』と映画『ルックバック』は全く読後感の違うものであると言えるだろう。前者は「藤本タツキのもの」であって、後者は(今思えば過度なほどに)「私たちのもの」であった。

冒頭にも述べたように私小説が好きなので、自分が食べたいものであったかと言われれば微妙だが、確かに美味いものではあった。というところだろう。


なんだか中途半端な映画感想になったので、最後に自分の話をして締めようと思う。

何かを創る人にとって、机に向かうとは、救いのように思われる。

自分は研究者であり、物書きの端くれだが、立ち上がれないようなことがあった次の日ほど、机の前にいる。そして本を開いている。

机の前で頭を抱え、唸りこそすれど、死にたいと思うことなどない。

机の前には、自分と目の前の「それ」しかない。
シンプルな構図であって、余計なものが介在する余地がない。

机に座れば、あとは粛々と創るのみである。
藤本先生の出した結論は実に当意即妙だと思う。
結局のところ、何かを創って生きている人は粛々と作業をすることで、自分を救い、悲しみを忘れていく。

手を止めてはダメだ。
私は書き終わったNoteの記事をアップロードした。

もう夜だ。息抜きにしては長すぎたな。デスクライトを灯す。
目の前の本を再び開いた。あと半分くらいだ。
この本を読み終えたなら、新しい論文に着手しようと思う。

#映画感想文
#ルックバック
#藤本タツキ

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