朝のニュースが見れません

夜の22時から23時に就寝して、朝の4時から5時に起床する。
これが自分の生活リズム。

コーヒーを入れ、録画を消費したり、漫画や本を読んだり、音楽をかけてぼーっとしたり。ここから1時間、1日のうちで最も贅沢に時間を使う。
それが日課。癒し。

実家暮らしなので、自分一人の時間をいかに確保するのかということを突き詰めた結果、両親が起床する6時より1時間(2時間)早く起きることとした。
理由はただ一つ、朝のニュースが見れないから。
見れない、というよりも厳密に言うと「聞いていられない」。

両親は「出発の時刻を確認する」ために、必ず民放のニュース番組をつけて、バタバタと朝を過ごす。
ゆっくりと流れた一人の時間から、ぐいぐいと加速して家族の時間となる。もう15年近く同じ家族の朝を迎えてきたので、今更どうこうとは思わない。
けれど、コロナ禍になってから、どうも朝のニュースが見れない。両親と取ることの多かった朝食も、ニュースの鳴っているその部屋にいることができないので、一人で取ることが多くなった。

当初は今ほど酷い拒絶反応はなかった。
朝食を取りながら、積読(読み残した本や漫画)を消費する時に、他の文言が頭に入ってくるのでどうも集中できないなぁと思う程度である。
静寂の中でしか何かを読めないというのは別におかしなことでもあるまい。

それがだんだんと、別の何かと向かいあっていない時にも広がって、最終的には音を聞くだけで拒絶反応が出てくるようになった。

理由は幾つか考えられる。
最も大きな理由は、コロナによって誰かが亡くなったり、鬱屈した世の中の空気によってまた別の誰かが押し潰されるというニュースが増加したことだと思う。

無論、誰かの死を悼むことは大いに結構であり、世界的に流行する疫病の危険性を伝えることは不可欠である(二つをどの程度関連付けるべきなのかは議論の余地がある気がするが)。
そして、人気俳優や若手女優がこの鬱屈とした空気に耐えかねて、「ソレ」を決断してしまうという悲劇は非常にセンセーショナルであり、まさに大衆の求める「ニュース」であると言える。テレビが飛びつかないわけがない。

メディアは腐敗しているとか、そんなものは見なければ良いとか、そういうことを言いたいわけではない。
問題はそれをどう読み上げ、どう紹介するのか、である。

民放の朝の番組といえば、セットも鮮やかで、出演者も多い。視聴率争いの激戦区という裏の顔を隠すように、にこやかなアナウンサーがお茶の間に笑いかける。
人気のコンテンツや商品を紹介して、街中でインタビューを行う。これもよく見る光景だ。
そして、ふとした合間に、出演者たちの顔は引き締まり、やがて堅いニュースが読み上げられる。

自分はどうも、これが体に合わない。
なんというか、巷で大人気の商品に並ぶ行列と日々の感染者数を同じ人間が読み上げることに違和感を感じてしまう。
今度公開する映画の宣伝をする俳優と亡くなった俳優のニュースを全く違う表情で読み上げる人間に慄いてしまう。

番組の構成の話ではない。人間の話だ。
なぜ、あなたはそんなロボットみたいな話し方ができるのだろう。
なぜ、明るい話題に感情を出しながら、暗い話題では感情を遮断して、情報として処理できるのだろう。
温かさと冷たさ、人間はそんなにすんなりと使い分けられるのだろうか。

ここまで書いて、自分はテレビを観るのが下手だなと思う。原稿があることなんか百も承知であり、こんなことを疑問に思う意味なんかない。多分。出演者だって、ただ仕事をこなすだけだ。明るい表情も見せかけである(偏見)。

だが、苦手なもんは苦手なのだ。
自分の中に折り合いがつかない。

なので、ニュースはラジオか新聞で確認するようにしている。
ラジオのアナウンサーはどのニュースも熱っぽく感情的に意見を述べ、新聞の誌面はどのニュースも均等に淡々と情報として処理する。

自分にはこれが合っている。
世の中の話題と直面するときに、取り上げ方や読み上げ方に一貫性が存在するメディアや人間に好感が持てる。
それを見る自分の中で折り合いがつく。
笑えない時に無理に笑うことはないと思う。
どのように受け止めたら良いのかわからなくなるので。

ちょっと考えすぎかな。
ただ、noteは考えすぎたことを出す場でもあるので、これで良いこととする。




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