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手放すこと

久しぶりにいぬじん氏との往復書簡してみるか。相手はTwitterからだったのだがw

磯野さんは存在は知っていたが、俺のなかでは東工大の人と勘違いしていた。それは伊藤亜紗さんだった。まったく違ったわ。そして勝手にミシマ社界隈とか思っていた。人類学ちがいか。

まったく関係ないこと書くけど人類学っていいよね。俺の親友も人類学徒であるが、参与観察とかフィールドワークに長けている人はなんか好きだし羨ましい。とはいえ、全ての人類学者がフィールドワーカーでもないんだろうけど。

磯野さん、なにげに俺の先輩感もある。ワセブンに人類学がそういやあったのかと。文学部のなかでは亜流なのだろうけど、多様でざったなワセブンっていいなとあらためて思った。東洋哲学から西洋哲学、考古学も美学も心理学も社会学ももちろん文学もある。人類学の知り合いはいなかったなあ。


記事を読んで、激しく同意ものでした。られつ抜粋します。

はい。でもわたしの場合、そういう尺度の中で自分の業績を積み重ねてゆくのが、どうにもうまくできなかったんです。

その尺度の中で評価される人間にもなれないだろうと思い、大学で常勤職を得るのをあきらめました。

わたしはフリーランスなのでまだマシだと思うのですが、大半の会社員は配慮すべき人の数が多いので、より他人軸に引っ張られやすいですよね。

中には他人軸で進む社会で生きられるよう、あえて自分の感覚のスイッチを切って、自分の心を守っている人もいるように感じます。

いやぁ……ほんと最近ですね。40歳過ぎてからです。自分が大学に合わないと気づくのだって、10年かかりましたし。
(中略)

ある日ふと、大学の常勤教員公募の履歴書を書くのをやめようと思ったんですよ。「この大量の書類を書くために自分の人生を使いたくない」と強く感じて。

あとは、大学の中でポジションを得ている人のアドバイスが、わたしには全然ピンとこなかったんです。

大学で生きていくためには、そのアドバイスに「うん」と言わないといけないのですが、自分にはそれができないな、と。

一応わたしなりには、大学が求める尺度の中で評価される人間になろうと頑張ってみたんです。

でも、どうやらわたしには難しいらしい、ということに10年経ってようやく気づいた。なので「大学」という環境の方を手放すことにしました。

それこそ、深水さんと同じ20代の頃は本当にカオスでしたね。とにかく右往左往、無駄な動きばかり(笑)。

ただ、唯一わたしができていたのは「やってみる」ことですね。「人類学を学んでみる」、「社会人と言われないことが嫌だから一度社会人になってみる」、「博士に戻ってみる」とか。

周りから見ると「何がしたいの?」という感じだったと思いますが、その積み重ねの中で「自分はこういうところなら生きていけるのかな」と気づけました。

他人の評価に縛られるのって、心を遠くに向けている状態だと思うんです。でも身体を動かすと、自ずと自分の心を近くに向けることになる。

「どう走ると気持ちいいか」に視線を移すだけで、他人の評価に引っ張られにくくなるのかな、と。

あと心がざわざわするときは、わざと過剰にゆっくり動くようにします。コーヒーをものすごくゆっくり入れたり、白菜をゆっくり切ってみたり。

いまの社会って「効率的に多く」が求められますよね。わたしには、その速すぎるペースが合わないんですよ。

あえてゆっくり動くことで、社会の速いペースとのバランスを取るのが、わたしなりのサバイバル術ですね。

そうですね。時間はお金とリンクしていて、「時間を節約する」「時間を稼ぐ」というように、時間の比喩がお金になっていますよね。

つまり、「お金」を扱うように「時間」を扱っているわけです。だから、わたしたちは時間をうまく使ったり、貯めたり、稼いだりすることに価値があるように感じる。

これは社会に共有されているお金の価値観を知らず知らずのうちに内面化している、とも言えます。
(中略)
わたしは、哲学者の宮野真生子さんとの共著『急に具合が悪くなる』で、20通の書簡のやり取りをしました。そのときは、3日が3か月くらいに感じられたんです。

実際に過ぎた時間よりも、自分が体感した時間のほうが長い。これって、時間を「生み出せている」状態だと思うんですよね。


ほとんど、磯野さんの発言を拝借した。このあたりは膝を打った表現だった。

わたしの場合は、もういろいろバカバカしくなった。人生を無駄にしている感がある日コップからあふれる水みたいになっちゃった感じ。
幾度もそういうことはあったのだけど、今回は水量が高まったのかなあ。

不安なのは金だけだった。所属とか肩書とか社会的な地位はないと寂しいし価値がなくなったように感じるのだけど、関係ない環境に身をおいてフェイスブックを見なけりゃいい。

この4月から新しい仕事に就くのだけど、まったくこれまでのキャリアと違う。やっと方向転換出来たなと。広告10年、人事10年、多少の長短はあっても、10年ごとに職種を変えているのはまあ普通じゃないのかも。普通ってもうあってないようなものかもしれないが。

ずっと同じ会社で定年まで勤めるのは憧れていたが、働いて3年でそれは叶わなくなった。金銭的にも安心感もあってそれもいいと思うのだけど、そうできなかったのも性(さが)ですかねえ。時代背景も大きいんだけどね。


だいぶ関係ないことを書いてしまったが、自分らしく働く、というのはとっても難しいことだと思う。基本条件として、たいていのホワイトカラー仕事はブルシットジョブであるので、そこに人生を仮託することは難しい。マイペースで楽しく、それなりに豊かに暮らすというのは頭をつかえばできること、でもないかもしれない。運と縁によるのかな。まあ、もがきながら少しでも心地よい生き方を模索するしかないんだろうね。

最近は、働き方とか生産性とかはもう興味が全く無くて、働き方について語ったら負けなくらいに思っているけどね。Twitterで流れてくるものも軒並みミュート。チューニングがあわなくなってしまったので、人事はもう無理だろうね。

では、いぬじん氏にTag.

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