見出し画像

両目で見る

『右目は正面向いてるのに左目は違うとこみてるよ!』

小学生の頃から幾度となく、言われてきた。

そう、私は生まれつきの斜視である。斜視の中でも”間欠性斜視”である。間欠性斜視というのは、普段は両目で同じ方向を見ているが、時々左右の目で違うところを見てしまう症状である。私の場合は、疲れている時によく斜視になる。今でも疲れている時は、毎日1回のペースで斜視になる。

斜視は目の病気に分類され、私の両親もまだ私が赤ちゃんであった頃、心配して病院に連れて行ってくれた。しかし、私の場合は左右とも視力は出ていたので『治療の必要はなく、本人の自我が芽生えて見た目を気にするようであれば治療してください。』というのが医者からの見解だった。

結果として、私は今もなお治療はしていない。決して、見た目が気にならなかったわけではない。単純に『目を手術する』ことが怖かった。さらにいえば、斜視の治療をしても完治はしない。10年経てば元に戻ると言われていて、人生で3度までしかできない。10代のうちにやれば40代の頃には元に戻るし、その頃の斜視の方が悪化している可能性もあるから、今のうちに治療することが正解かはわからない。

また、高校生の頃から斜視になっている時に自覚できるようになったことも要因としてある。視界に違和感を感じるようになり、さらに現在では、いつもではないが、斜視を自分で意識的に両目が揃った状態に戻すことも出来るようになった。今は、大学の友人でも私が斜視であることを知らない人も多い。だから怖さが勝って、手術はしていない。

しかし、自分で斜視と戦うことは簡単じゃない。斜視を意識的に両目が戻った状態にすることは、本当にエネルギーがいることだ。目の筋が自然に引っ張られてしまう方向に逆らって意識的に目玉を戻す。自然の摂理に逆らうのだから、相当疲れる。

疲れている時に人と話すことは、本当にエネルギーがいる。両目で相手を見れているか、相手の目という小さな焦点に必死で合わせながら、相手の話を聞き、返答をする。写真もこれまた憂鬱だ。カメラという焦点に必死で両目を合わせるのだが、カメラの焦点は予想以上に小さい。だから必死でシャッターが切られるまでに目のコンディションを整える。

私がここまで斜視を気にする理由は、斜視に対して人が驚き・不安感・不信感を持つことを知っているからだ。

冒頭のような『左右の目で違う場所を見ている。』という指摘は、小学生の頃から幾度となく受けてきた。同じ子供からの指摘は興味本位によるものが多く、『すごい!どうやっているの?』というニュアンスが強かった。当時から悪気がないことは承知の上であったが、みんなの前で聞かれると、動物園の動物のように他の人と違う自分を見せ物にされている感覚があり、嫌だった。

一方、大人からの指摘は露骨にマイナスのものが多かったように感じる。『目が斜視になっているから治療した方がいい。』私じゃなく、母にそう指摘した人もいた。留学時代のアメリカの友人には冗談まじりに『サイコパスみたい』と言われたこともあった。あなたの目はおかしい、普通じゃない。そういうマイナスなニュアンスが大人からの指摘の中には常にあったように思う。

別に私は、指摘してきた人を非難したい訳じゃない。どう感じるかは、あくまで個人の判断である。しかし、人生の中で幾度と受けた指摘は、斜視が世に快く受け入れてもらえないことを知るには、十分であった。

私がこの記事を通して最も伝えたいことは、生きづらさだ。『見るということは、両目で同じ方向を見ることだ。』というスタンダードが日本だけでなく、世界の固定概念として定まっている。その基準から外れる斜視は、理解が進んだところで歓迎してもらえるわけじゃない。

今日、世間では多様性という言葉を頻繁に聞き、多様性を受け入れようとする風潮が強まっている。『多様性を受け入れる』とは、違いを理解して、その違いに優劣や正解不正解の判断をしないで、受け入れることだと考えている。しかし、真に多様性が受け入れられるためには、壊されなければいけない『日本基準のスタンダード』『世界基準のスタンダード』が溢れている。斜視以外にもたくさんある気がしてならない。私は自分が斜視という性質を持ちながら生きていることで、その”スタンダードの壁”の一部を常に感じる。

その壁を壊したいと思いつつ、壊されることを願いつつも、今日も私は全体力を注いで、必死に両目で焦点を合わせている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?