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たらこのおにぎり~note8日目~

私がまだ小学 1 年生の頃、家で1人で留守番をしていたことがある。父母の仕事の関係上、たまに1人で留守番することがあったのだが、私は家に1人でいることが大嫌いだった。勝手に家のどこかに知らない人が隠れていることを妄想しては、怖くて怖くてたまらなくなり、母によく電話をかけていた。まったく迷惑な話である。

その日もそんな調子で母に電話したところまでは良かったが、なかなか繋がらなかった。それでも私の中に押し寄せてくる恐怖心は止まることを知らず、普段はわざわざ電話を掛けたりしない祖母に電話を掛けてみた。

祖母は話を聞くなり、私を心配して家まで駆けつけてくれた。そして祖母は扉を開けるなり、スーパーマーケットの袋を渡してくれた。袋の中をのぞくと、たらこのおにぎりが 1つ。何でたらこだったのかは分からない。ただ、祖母が私の空腹を気遣い、私の電話の後に急いでスーパーマーケットに出向き、買ってきてくれた事だけはちゃんとわかった。そのおにぎりは紛れもないスーパーマーケットのおにぎりだったのだけれど、祖母が握ってくれたかのような優しい味がしたことだけ、今もよく覚えている。

当時はまだ幼くて良くわかっていなかったが、祖母は足腰が悪くなっていたにもかかわらず、祖母が暮らしていた家から1 時間以上の時間をかけて、階段を登り、4 階の私の家まで自分の足で歩いて来てくれたことを後になって知った。それを知った時、一番にこう思った。『祖母らしい』と。

祖母は私が人生で出会った中で、最も他人への愛に溢れた人だった。本当に優しさを体現した人だった。小さい頃は祖母の家に遊びに行けば、色々なお菓子やおもちゃが用意されていた。中学の頃は部活で忙しくてなかなか会えなかったのに、会いに行けばいつも優しく出迎えてくれた。でも祖母の優しさはそういう意味だけではない。私が孫だからという意味ではないのだ。娘に当たる母から聞いた昔のエピソードも全て含めて、祖母は誰に対しても無償の愛に溢れた人であった。困っている人がいれば必ず助けたし、知らない人でも手を貸すことを厭わない。そして身内を含め、誰の悪口も愚痴も言っているところを母も見たことがなかった。

そんな祖母は、3年前の7月に他界した。私がアメリカから帰国して1か月で、2月に受験を控えた受験生であった時のことだった。祖母が危ないと聞き、私は気が付けばタクシーに乗って病院に向かっていた。私が病院につくと、母は既に病室にいて、父と姉も続いて病院に到着した。その時が、家族久しぶりに顔を合わせた瞬間だった。私は受験生として勉強に忙しくしていた時期だったし、姉は新卒の社会人としてまだ余裕のない時期であった。祖母を囲みながら久しぶりに家族4人で話したことを覚えている。本当に久しぶりの感覚だった。5時間ほどして祖母の容体がひとまず安定したところで、その日は遅くなったからと外で食べることになった。病院近くのファミレスを出るとき、電話が鳴った。病院からの知らせだった。

私は本当に最後の最後まで祖母の優しい一面しか見ることがなかった。病棟に家族が居た時は容体が安定していたのも、最後の最後まで心配をかけないように最後の力を振り絞ってくれていたのかもしれない。祖母は寝たきりになっていた期間も長かったので、留学中にもしものことがあれば会えないかもしれないと思っていた。命日が7月だったのも、もしかしたら私が日本帰ってくるまで待っていてくれたのかもしれない。ちょうど命日の次の日は七夕だった。七夕だったら、もしかしたらなんか奇跡が起こるかもしれないと思って、その日まで生きていてくれたら、なんて思っていたのだけれど、そもそも7月まで生きていてくれたことが祖母の優しさと強さの表れなんじゃないか。今ならそう強く思う。最後まで芯の通った、愛情に満ちた優しい女性だった。

私は今でも、スーパーやコンビニでたらこのおにぎりを見かけると、祖母のことを思い出す。たらこのおにぎりの出来事以降に祖母と一緒に食べたご飯はたくさんある。それでも、祖母との思い出の食べ物はやっぱり"たらこおにぎり"なのだ。あのたらこおにぎりに詰まっていた優しさは、今でも忘れられない。私はたらこのおにぎりを見かける度、祖母を思い出してどこか温かい気持ちになる。そして同時に、こうも思うのだ。

『私も祖母のような芯の通った優しい女性でありたい。』と。祖母から教えてもらった"優しさ"とは、"見返りを求めない愛情を相手を選ばず、平等に注ぎ続けること"だった。難しいことは承知の上で私もこうありたいと強く思う。でも、目指すことに不安はない。なぜなら、祖母がそうなれることを証明してくれていたからだ。

私にとって、たらこおにぎりは祖母との思い出であると同時に、優しさの象徴、そして生き方の指針なのである。


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