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ヨルシカ「左右盲」考察 優しさの海に沈んでいるもの

↑YoutubeでこのPVを見て、「この映画観よう」と心に決めた。「一つでいい 散らぬ牡丹の一つでいい」のタイミングたるや!この動画だけで涙が出てきた。セカコイの広報のみなさんありがとう。さらにおシラさんの動画でこの映画の主題歌「左右盲」が、どうやら考察のしようがありそうということを知った。途中で動画は止めて映画観に行った。泣きすぎてハンカチで鼻をかんだ。

おシラさんの動画を見て、左右盲のPVを見て、原作小説を読んで、n-bunaさんのコラムを読んで、「左右盲 考察」で検索してめちゃくちゃ他の人の考察を読んで…とりあえず地盤は固めた!という状態で歌詞と曲を読んだ。これはねえ、すごい曲だよ。ありがとう、ヨルシカ。ありがとう、夏休み。

(読まなくていい)というところは読まなくていいからね。

⚠️息を吸って吐くくらい自然にネタバレします⚠️

1 作品概要(すっ飛ばしてもOK)

a.「セカコイ」概要(というかストーリーのすべて)

「今夜、世界からこの恋が消えても」HPより

毎日の記憶をなくしていってしまう真織と、そんな彼女の毎日をとにかく楽しいものにしたい、と献身的に支える透の優しさと愛情の話。
真織は毎朝起きるたびに「自分は記憶障害をもつ」という現実を突きつけられ、絶望に打ちひしがれながらも昨日までの日記を読み、記録を短期記憶にすり替えて日常に挑む。
一方、透は家族や友達に対して、自分より相手のことを大切に考える、優し「すぎる」とも言っていい性格。真織と擬似恋人をやることになり、冷静に献身的に、でも少しずつ熱く、真織への想いを募らせる。
真織の昔からの親友である泉は、心のどこかにある寂しい気持ちを抑えながらも、二人の恋路を見守る。そんな泉に透は、「僕にもしものことがあったら、真織の日記から僕の存在を消してほしい」と意志を託す。そして透は翌日亡くなる。あああああ!!!おいおい!!!まじか。
泉は悩む。悩むがその通りにする。だが数年後、そのことでまた真織を騙しているという現実に直面し、苦しむ。そして全て打ち明ける。ここがとてもつらい。

この話は、ハッピーエンドではない。だがバッドエンドでもない。難しいけれど、透が真織に自分の心を捧げたという事実が、真織の未来を照らす祈りであるということは否定できないだろう。

ここまでが小説・映画の概要。「左右盲」は、この作品の世界観に合わせて作られていると考えてまず間違いはなさそうである。

友人りかりんの感想。そうなんだよなぁ、、、



b. アーティストの明言

ヨルシカの「左右盲」特設サイト(←シングルのサイトがあるってすごい時代だ)と、コンポーザーであるn-bunaさんの後書き(有料記事なので詳細は割愛)から、本作品を読むにあたっての最低限のラインを引く。(私は、よほどの発見がない限りはアーティストが明言している背景は覆さずに歌詞解釈を進めたい)

特設サイトより 

 相手の顔や仕草を少しずつ忘れていくこと、というのは、別れなのか、記憶障害に関するところなのかは、明言されていない。さてどうなのでしょうね。


c. 左右盲とは

ネットの情報が正しければ左右盲は、咄嗟に左右の判別がつかないことだそう。病名や発達障害ではない。原因はわからない。左利きの人に多い。らしい。
また、「時計の3時の方」というような言い方がありがたいという情報も。なるほどね。そういえば私も「うつぶせ/あおむけ」は咄嗟にわからない。そんな感じかなあ。

曲の中で「左右盲」とは、「あれ、右だっけ左だっけ」となる状態のことで、これは同時に相手の様子を忘れていく様子である。


d.「幸福な王子」のポイント

オスカーワイルド著。アンデルセン童話的な感じかと思ってたけど違うのか。(童話の種類よくわからない。どうなのか?)お話の細かい部分はいいのだが、ポイントとしては早くに亡くなった王子の銅像が、ツバメに頼んで自らの体に埋め込まれた宝石や金箔を遠くの貧しい人々に届けてもらう、というところ。この物語の特徴はしばしば「献身」や「自己犠牲」という単語で表されている。そして持てる宝石の全部を届けてもらった王子の銅像は、焼かれる。が、鉛の心臓だけが残り、その心臓とツバメの死体は天使によって天国へ誘われる。

なお、「幸福な王子」はあくまでモチーフであるため、作品の主軸ではないと考える。主軸をわかりやすく伝えるために用いられているデザイン、くらいに考えて良いのではないか。


2 歌詞解釈の時間だ

a. 歌詞・構成

歌詞:Uta-Netより 

・Aメロ→サビ(現代的な構成だなと思う)
・登場人物は「君」「僕」の二者(ラスAでは「貴方」と「私」)
 ここでは、この二者を真織と透とします。
・今回は、「真織side」「透side」として歌詞を分けて読んだ後、ラスAでの主語の変化は何なのか?を考えようと思います。


b. 真織side

Aメロの部分が、真織の視点で描かれていると思う。
「真織」と呼ぶだけ、映画に寄せた考えが強いです。許してね。
Aメロの主体を真織とする理由は、1つ。Aメロの主体が、「左右盲」な状態=相手のことを忘れかけている から。

この状態を、「もうすぐ亡くなる透」と捉えることもできなくはないが、いや、記憶障害をもつ真織がいるのに、なぜ透に左右盲をあてがう?となる。混乱する。ここは真織でいいでしょう。

※念のため、主語は「僕」だが、ヨルシカの他の作品でも「僕」は使われているし、僕=男性と決めつけるのはさすがに古すぎるので、その考えは除外。
以下具体的に読んでいく。

●  1A = 目の前にある確かな現実(幸福)
この風景、右眉の垂れた君が頬杖をついて、自分は向かいで温いマグカップを持ってるって、こんなささやかな日常歌詞に出てくる?って。思いませんか。ほんとうに小説の冒頭みたいな、あたたかい普通の場面。〈朝がこんなにも降った〉は、〈朝〉を一般的な意味でプラスと捉えるか真織の朝だからマイナスと捉えるか、とても悩んだのだけれど、この場面だから幸せな方にとらえたいな、と思う。
記憶か?現実か?と思ったけれど、これは現実だな。真織がテスト勉強をしている透を見つめているときと同じ目線を感じる。相手を見て、自分を見て、また相手を見る。ここに私がいて、あなたがいる。それを確かめる。わたしの朝はこんなにも、温かい。これは、真織にとっての幸福だろう。

●  2A = 不確かな記憶。左右盲(または記憶障害)が邪魔をして、思い出せなくなっている状態と、それに対する苦しみ
1Aと同じ風景、ただそれを思い出そうとしても、左右がうまく思い出せない。〈上手く思い出せない 僕にはわからないみたい〉ここ、いいよね。〈上手く思い出せない〉だけでいいのに。〈僕にはわからないみたい〉をつけることで、もっと悔しい。プリントの間違えた箇所を消そうとして、紙がグチャってなっちゃうあの感じ。上手だ。

●記憶リセットドラム(勝手解釈)
2AとラスAの前に小刻みなドラム音が入る。これは記憶リセットの合図ではないかな?と勝手に思った。

※ラスAについては、d.で書く予定。


c. 透side

c-1まえがき(読まなくていい)
まず、真織/透と安直に分けてしまったことをここで謝りたい。結論から言うと、この曲に出てくる〈僕〉は、透ではないのだ。1-aで見た通り、作中の透は優しすぎる。亡くなった母の代わりに家事をする姉のことを思い、自分がその役を引き受ける。いじめられっ子を庇うために、いじめっ子に立ちはだかる。彼女の日記が楽しいもので埋まるように、1日ずつの思い出をつくる。自分の記録ごと、彼女の未来に落とす影を消去する。彼のさまざまな行動は、彼女のことが好きだから、という理由だけでは成り立たない。透は、優しすぎるのだ。普通の高校生の感覚ではない。
対して「左右盲」の中の〈僕〉は、透の皮をかぶっているものの、中身はもっともっと人間らしい。もしかしたら、その人間らしい部分を透は、家族にも読者にも見せずに、隠していたのかもしれない。と、考えたい気もする。

c-2 透の視点
ここまで長く書いて、それでも便宜上彼のことを透と呼ぼう。透視点で書かれたパートは、サビとCメロである。サビとAメロとでは決定的に違うところがある。それは、〈僕〉が、左右盲の状態にないことだ。さらに〈君の胸を打て〉と、何かを〈君〉に残したいという想いが前面に出ていることでもある。Aメロの主体がいきなりこのような状態になるのは不自然だ。主体が変わっていると考えた方が自然である。
※サビの中にも、内容が2部に分かれている。とりあえず、S-1とS-2に分けてみた。

c-3 サビ前半
●真織に特別な一つを。(1S-1、2S-1、おちS、ラスS-1)
多くは望まないから、真織の現在に一つでも何か残したい。消えゆく真織の記憶に、何かを刻みたい。その何かは、ありきたりなものではいけないと思っている。だから〈一つでいい〉と謙虚に言いながらも、〈散らぬ牡丹〉〈夜の日差し〉と、完全に矛盾した状態の、非日常なものを彼女に渡してくれと望んでいる。なんて言うか、絶対に叶わないことを願っているという雰囲気が、切ない。

●花火(読まなくていい)
蛇足だが、〈散らぬ牡丹〉〈夜の日差し〉は、夜空に上がる花火のことじゃないかな、と思う。記憶に残った夜空の牡丹花火は散らないし、爆発光は夜の日差しにもなり得るから。透と真織が花火を見に行く場面は、二人を強く結ぶ重要な場面の一つだ。
牡丹に関してさらに蛇手蛇羽だが、菊花火は光が尾を引く(メインイメージになりやすい線で描かれるようなやつ)対して牡丹花火は尾を引かない(点の集合のようなやつ)なのだそう。
また、牡丹の花の散り方はきれいに咲いているうちにばらばらと花弁が落ちる(ヨルシカの別作品「言って。」の中に「牡丹は散っても花だ」とあるが散った様子も美しく、花としての終わりではない状態から、確かに、と思う。)対して牡丹に似ていると噂の芍薬は、首ごとボトっと落ちる感じで散るらしい。これぞ散っても花、いや散るという表現は不適切かな…

c-4 サビ後半
●真織の静かな未来に祈りを。(1S-2、2S-2、ラスS-2)
サビを読む中で、この後半部分の解釈に苦しんだ。特に1S-2〈一人行くその静けさを〉ラスS-2〈僕だけは笑わぬことを〉は、今でも具体的に訳すことはできない。ただ、サビ後半部に共通していることは、現在の真織ではなく、真織の未来に対して、穏やかでありますようにという祈りが歌われているということではないだろうか。そして同時に、〈一人行く〉〈君の目"は"閉じぬ〉など、真織が一人になる=透はいなくなる意味も伝えているようだ。
〈その一つを教えられたなら〉の、「教える」という表現に少し違和感を覚える。教えるって、既に知っていることを知らない人に伝えるというニュアンスだから、まるで透が真織の未来を知っているような雰囲気にとることができる。うーん、祈り半分、確信半分ということだろうか。ね

c-5 Cメロ
●幸福な王子に重なる透、そしてツバメ
Cメロは、幸福な王子そのまんまだ。透と王子を重ねている。王子の身体にたくさんついている宝石を透の〈心〉に見立て、そのすべてを真織に渡すと言っている。物語も佳境という印象を受ける。何せ今まで透は、〈君〉とは言えど〈僕〉とは言っていなかったから。映画でなぞると、ちょうど泉に思いを託すあたりではないだろうか。そしてこれは、ツバメに思いを託す王子と重なる。
Twitterで考察検索していたときに、「サビ裏で鳴っている高い音は、ツバメの鳴き声」というのを見かけた。わたしもそう考えたい。あの音はおちサビ以外のサビと、Cメロの裏で鳴っている。
〈鉛の心臓〉は、〈心〉を剥がした〈身体〉の核である。すべて渡して、もう使えない身体であっても、側にいたい、という思いだろうか。


d. 2つの変化【解釈のヤマ!読んで!】

「左右盲」の解釈のヤマはここだ。この曲では、見逃してしまいそうなほど微かに、2つの変化が起こっている。一つ目が〈一つ〉から〈少し〉への変化。もう一つが〈君と僕〉から〈貴方と私〉への変化である。この二つの変化によって、曲の終わりと、小説・映画との重なり具合や違いが見えてくるような気がする。 

変化①〈一つ〉から〈少し〉へ 〜透の人間らしさ〜

「なんか、変じゃない?一つでいいって言ってたのに、一つじゃないって言っちゃってるよ。」「それに少しって、一つよりも多い。」
彼はスマホをいじる手を止めて言った。着眼点の鋭い先輩の言葉だった。そしてこの二言が私の解釈を大きく動かした。


〈一つでいい〉という言葉は、サビの頭に効果的に用いられている。透sideでも読んだように、何か真織の記憶に残る特別を一つでも、というニュアンスで使われており、後に出てくる〈少しでいい〉も似たような意味であると思われる。いや、そうではない。少しは、一つよりも多い。透の本当の気持ちは、一つでは足りないのだ。〈一つでいい〉という彼の謙虚さ、優しさと、それじゃ嫌だという欲、思いの対立・葛藤が、滲み出ているところなのである。

そう断言する理由は2つある。
まずは、可算・不可算視点。「一つ」は数えられるもの、「少し」は数えられないものに使うという使い分け方も考えることができる。ただ、その視点で見ると〈夜の日差し(明らかな不可算名詞)〉を〈一つ〉、〈僕の靴跡(明らかな可算名詞)〉を〈少し〉、に割り振っているため、この使い分けではおかしい。
次に、〈一つじゃない〉の存在。これまで〈一つ〉であることを十分だとは言わないものの、多くは欲しがらない、それでいいと歌っていたのにも関わらず、最後には、君の幸福は〈一つじゃない〉と、「一つだけ」であることの十分さをはっきりと否定している。

そしてこれを発見した後の「この曲、うまいなああ、、、」ポイントが、これまた2つある。
ポイント1. 本音を、似た言葉で言い換えていること
ラスサビで、それ以前とは真逆のことを言って、心情の変化や本音に思いをめぐらせるように仕向けた構成の曲がある。

例1: wacci『別の人の彼女になったよ』
サビ「だからもう会えないや ごめんね」
ラス「だからもう会いたいや ずるいね」
聴いた人の感想「ああ本当は会いたいよな、ずるいな、ああぁぁぁ!」

例2: 優里『ドライフラワー』
サビ「声も顔も不器用なとこも 全部全部嫌いじゃないの」
ラス「声も顔も不器用なとこも 全部全部大嫌いだよ」
聴いた人の感想「もう…本音を嘘で隠して…そんなこと言ったってさぁ気持ちは変わらないのに…切な…」

などなど。反対の言葉選びがラストでグッと効いてくる。主体の本音や思惑が、聴いた人にバレバレになってしまうところだ。
ただ「左右盲」では、全く反対ではなく、一見似たような言葉に置き換えているから、サラッと聴いただけでは気づかないのだ。うまい。これが「一つじゃ嫌だ」とかになったら超絶ダサい。

ポイント2. 落ちサビからぬるっと入ってくること
この手の変化は、ラストの盛り上がるところでバーンと持っていきがちだが、「左右盲」では直前の落ちサビの途中から入ってきている。色をつけてみたらわかりやすい。ぬるっとすり替えられることで、より自然に見える。うまい。

以上が、〈一つ〉から〈少し〉への変化についてだ。ここからわかるのは、どこまでも優しく、自分の欲望を切り捨てて生きてきた透の、人間らしさである。気づかれないくらいにさりげなく、でも確かに「本当は、一つだけじゃ嫌なんだ」と、そう言っているように感じてならない。


変化②〈君と僕〉から〈貴方と私〉へ 〜叙述トリック〜

この曲を読み始めて最初にぶち当たった大きな謎がこれだった。内容からして、Aが真織、サビとCが透の視点であることに疑いはなかったのだが、そうするとなぜ最後に主語が変わる?というところに説明がつかない。あからさまに主語が変わっているということは、作者にはなんらかの意図があるに決まっている。けれども、ラスA以前/ラスAで二者、とはどうしても考えられない。

このことで悩んでいるとこれまた別の先輩に話したところ、「それも含めて左右盲なんじゃない?」という答えが返ってきた。少しだけなるほどと思ったが、いやあ、流石にそれで片付けてしまってはあっけなすぎる、もう少し考える余地をくれる作品であろうという期待を抱かせて!とも思った。でもその会話をきっかけに解釈は広がった。悩んでいることは、全く関係ない人に聞いてもらうのが良かったりするんだよな。

ここは結論ではなく、私の思考の過程を聞いてほしい。
まずラスAを読むことにした。

最初の二行で表しているのは、主体がおそらく何か大きなショックを受けて、身体の感覚にまで影響が出ているということだろう。
ではそれはなぜか。その理由が最後の二行。〈貴方の心と 私の心が ずっと一つだと思ってた〉のに、そうではなかったから、である。

(↓このブロックは読み飛ばしてOK)
「そうでなはなかった」とは、具体的にどういうことなのか。ここは最後まではっきりしないのだが、試しに以下3パターンを考えてみた。
①左右盲が進み、相手のことをほとんど思い出せなくなり、さらに相手の存在も消えてしまい、ただ今まで自分の一部だと思っていた"何か"が消失してしまった(記憶△ 相手の存在×)…原作寄り
②これから先もずっと一緒だと思っていたのに、相手の存在が消えてしまったことによりそれが叶わなくなった(記憶○ 相手の存在×)…テクスト寄り
③今までずっと一緒だと思っていたものが、実は元から(又はどこかの時点で)一つじゃなかったという事実に気づいてしまった(記憶○ 相手の存在○か△)…これは説明つきづらいかな
どれと決めてもあまり影響はないけれども、私は原作に寄せたいので記憶も存在も朧気な①と仮定してみた。

では、主体(以下ラスAの主体は真織と呼ぶ)はどこまで一つだと思っていて、どこから一つでないと思っているか。それが、ラスA以前/ラスAだ。ラスAまでは真織は、透と心が一つだと思っていた。だから曲の中では主語を同一にしている。二人の心が一つだと感じていた間は、どちらの視点でも〈君と僕〉、心が一つでなくなってしまったと感じた瞬間から、真織は〈貴方と私〉という呼び方になってしまったのだと思う。なんか叙述トリックみたいじゃない?そんなことない?
この、心が一つじゃない状態とは、作品の方向的に、気持ちがすれ違って別れた、みたいなことではないと思う。真織の記憶(左右盲)と、透の存在の危うさの両方が生んでしまった悲劇、くらいにモヤっとさせておいてもいいかもしれない。


どうだろう。こう読んでみると、「左右盲」は、原作よりも透の人間的な感情を隠してもたせながら、よりバッドエンド寄りにできているように感じた。いやあ、すごいよ。複数の要素を用いて、無駄なくキャッチーに、でも余白たっぷりに作りあげたn-bunaさんの才。すげえ。今26歳らしい。まじか。かっこよ。


3 掬いきれなかった無念と謝辞

全部全部を読みたいのに、掬いきれなかったところが無数にある。たとえば、ヨルシカの楽曲の方向性や、PVの内容に関してのこと。そこまで深くカバーして考えるまでには至らなかった。そしてきっと、私が勝手に言葉をすっ飛ばして決めつけたところや、モヤッとさせたままスルーしてしまった言葉もある。無念である。
でも、全部をカバーできないのがいい作品の必要条件だ。仕方ない。敵わないのだから。

夏休みに素敵な作品に出会って、ぐるぐるこのことを考え続けて、少しずつ発見があって、その度感動して、めちゃくちゃ楽しかった。多くを語ってくれない素晴らしい作品に、求められていないところまで良さを見つけて言葉にするのは、背景を知らない聞き手じゃなければできないことだ。私を含めた各地の考察班は放っておいても考察する。だから才のある素敵な方々には、これからもどんどん素敵な作品を生み出していってほしい。勝手ながら。楽しい時間をありがとうございました。

引用
☆「今夜、世界からこの恋が消えても」特設サイト 
https://sp.universal-music.co.jp/yorushika/left-right_confusion/
☆Uta-Net
https://www.uta-net.com/song/321620/
☆「左右盲」特設サイト
https://sp.universal-music.co.jp/yorushika/left-right_confusion/

参考(ネットで調べるって難しいよね)
☆一条岬著「今夜、世界からこの恋が消えても」(小説)
☆菊と牡丹 
http://www.japan-fireworks.com/catalog/kikutobotan.html
☆Discovery「右と左がわからなくなる左右盲」2018.10
https://www.discoveryjapan.jp/news/4v7i3mgmkcsk/
☆Green Snap「芍薬と牡丹の違い」2021.9
https://greensnap.jp/article/9977

2022.8.15

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