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観劇:ト音


春陽漁介が脚本を書いた「ト音」という演劇を観に行った。

ジャンルとしては学園コメディーであった。少し心理学の話も出てきており、サイコロジーフィクションという言葉があるのであれば、それにも当てはまると思う。

私が研究を行なっている創造性や内受容感覚も心理学の分野で研究がされている。そのため劇中に聞き覚えのあるワードがいくつか出てきた。その言葉を使って作品を作っている脚本家に対して少し親近感が湧いた。それと同時に、心理学を作品に落とし込むとこのような作品になるのかとも思った。

話は学校の新聞部に所属している主人公が、新聞記事になにを載せるのかというところから始まる。新聞部は部員は二人しかおらず、書いている記事も面白いわけではないようだった。主人公は魅力のある記事を書いてもう一人の部員を満足させるために奮闘していく。

学園ものなので、他にも学生が二人と先生も何人かでてくる。主人公が先生に関する情報を集めていくうちに、先生たちの隠している姿というのが見えてくる。先生たちの不純さと学生の純粋さを対比している場面はいくつかあった。暗に大人になるとは自分の感情を吐き出すだけではなく、それを抑えていろいろな人と付き合っていくことだといっているかのようにも捉えることができた。

とは言っても、学生は学生なりの苦悩があるし、大人にも大人なりの苦悩あり、大人でも容易く自分の気持ちが抑え込めるわけではないことは否めない。すべての人が人間関係を割り切って考えることなどできない。人付き合いが上手い人か上手くない人かなんてことも、分布としては広くスペクトラム状になっているだろう。ストレスフリーで人と話せる人がいれば、ストレスを抱えながらも話せる人、ストレスがかかる相手とは話さない人などなど様々な人が存在している。

人と付き合わないのには理由があるし、付き合ってもらえない側にも何らかの問題はあるだろう。誰でも彼でも付き合ってあげるのも特段いいことではないし、結局のところ個人個人で落ち着ければそれでいい気もする。

劇の中でもあったが、世の中の人は自分の中の正解の中で生きている。どう生きようと、私の中ではこれが良いのだと判断している。目から得た情報を疑いながら生きて、存在論の哲学沼にはまる人が少ないことからわかるように、多くの人は目の前にある物質を疑わずに生きている。

人間関係にたいしても割り切らないことが正解と思う人がいてもなんらおかしいことではないのである。そういった人のことを不器用とこの作品では表現していた。周りから見たら要領が悪いのかもしれないが、その人のストレス負荷から考えると割り切る方が要領が悪いのかもしれない。

ここからは劇を見た後に思い返しながら考えたことである。

他者のことを考えすぎて思い詰めてしまえば病んでしまうし、逆に自分のことだけ考えていれば自己中心的であると揶揄される。平均的に他人のことを考えて、さらに平均的に自分のことも考えればいいのだろうか。叱られたときには平均ラインを見返し、そのラインに寄り添いながら生きていくという苦行を強いられなければならないのか。面倒である。

平均的な人なんてほとんど存在していないのであるから、自分の思考や身なりに対してマイナスな感情もプラスな感情も抱く必要ないのだろう。評価してくるのは客体の判断を主観的に捉えた末にでてくるたわいもない思考だ。

それよりも、他者の認識や自己の認識のさまざまなずれを感じる方が重要である気がする。思考のずれは成長や自己概念の拡張を生み出す。それらを個人間でどうすりあわせていくのかで、面白い関係性は生まれていくのではないのだろうか。


私が生きることができるようになります。