見出し画像

記録する38

棲み分けについて。

私は棲み分けについて、大学の4年生になるまで全く気づいていなかった。

大学に入って知らない世界は増えた。新しい人、団体、知識、興味の広がりを感じた。世の中ではこれだけ面白いことをしている人がいっぱいいるんだと感じた。

それでもまだ知らない世界があった。それはいわゆる〇〇界隈である。そこはもはやあえて隔絶されたような場所だった。表現したことが外部に漏れないような工夫がしてある。解釈違いで問題が起きるかもしれないという危機感からの配慮がしてある場所だった。

ある界隈では面白いと評されている文章や作品も、外部から見たら何を言っているのかさっぱりわからないことがある。これも不思議なことだ。この作品は私のためには書かれていないと割り切るしかないのか。

この表現もなかなか不思議ではある。誰かが私のために作った作品なんて一握りである。有名な画家や彫刻家も私のために作品を作ったわけではない。だけれど、そこに存在し私まで届いている。その作品は作りたいから作ったのかもしれないし、依頼されて作ったのかもしれない。別の誰かのために作ったのかもしれない。

私に届く作品と、届かない作品にはどのような違いがあるのか。やはり界隈が違うからわかりにくいのだろうか。誰かには共感しやすく、誰かには共感しにくい表現。そう考えるとありそうかも。

人は人、私は私。私に共感する人もいればしない人もいる。他者においてもそれは成り立つ。そして、多数派は他者なので、「私の知らないところで私が理解できないような内容を私が知らない人同士で面白がっていること」がたくさんあることもなんとなく理解してきた。

実態が見えない媒体があるからこそ見えてきたのかもしれない。科学の発展によって認識できたことかもしれない。メディアには物体として存在はないけれど、確かにそこに思考があると知覚できてしまう。その知覚できる思考についてはもう少し考えを掘っていかなければならない。思考、知覚、存在とは何かを。

私が生きることができるようになります。