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記録する5

前回帰省して数日と経たずにまた福岡に戻ってきた。

祖父が亡くなったのである。

社会人になって初めて2親等以下の親族が亡くなったため、いつ帰省したらいいのかもわからなかった。とりあえず会社にメールを送り、休んでいいかの確認。そして、無断欠勤になるかもしれないのでとりあえず出勤をし、祖父が亡くなったことを報告した。

そこでの反応を見て思ったのは、これは出勤しなくていい状況だった、ということだ。会社における暗黙の了解とういものを心得ていなかったため、間違って出勤してしまった。

祖父が死んだことは、出勤することよりも大事だったのかと知った。無意識に働くことが優先されて、祖父という存在を蔑ろにしていた自分が間違っていた。少し衝撃だった。社会に出ても働くことが1番大事じゃない。それはそれで今更ながら安心している。

私がこの世からいなくなるとき、いなくなったあとも誰かに一緒にいて欲しい感じはする。ただなんとなく、それは傲慢なんじゃないかと怒られそうな気もする。1人で死ぬときでも嫌な気持ちにならない環境を作ることが大事なのだろうか。これもまた今の私にはわからないことなのかもしれない。
死に際には一緒にいてね、なんて言ったところで誰が私より長生きするかなんてわからない。私が1番長生きしてしまったらもう本当に看護師くらいにしか看取られないのかもしれない。看護師すらいないかも。そんな状況にどうやったら耐えられるのだろうか。強いメンタル作り?筋トレ?カポエイラでも始めたほうがいいのかな。

祖父のお通夜をやっている場所にいっても私の中の不思議な気持ちは続いた。

祖父の式は豪華だった。喪主が祖父に気を遣ったのだろう。不謹慎かもしれないけれど、綺麗だな、なんて思っていた。記録するために写真も撮りたかった。流石に良くないかなと思い遠慮したけれど、実際どうなのだろうか。お通夜の写真を撮ることは不謹慎なのだろうか。死に顔アーティストなんていたらとても大変だろうなと思った。精神的に病んでしまいそう。そこに価値があったりするのかも。アーティストなりの死との向き合い方だったりするのかもしれない。考え方は面白いなと思うけれど、こんなことを考えているだけで反社会的思想と指摘してくる人もいると思う。怖いね。

写真は撮れなかったけど、ここに書き記すことで当時の気持ちを思い出せるかもしれない。少し先の未来では、葬式を楽しそうにインスタに載せるような光景も出てくるかもしれない。あまり望まれていない未来を思いついてしまって申し訳ないな。全然サスティナブルじゃないし。

余談
何か余談で書きたいなと思ったことも既に忘れてしまった。なんだっけ。段々と脈絡も適当になっていることが駄目かもって思っていることかな。なんだろう。そのときに書いておけばよかった。反省。もう少し自身の感情を深掘りしてみなよ、辛いと思うけど、と誰かが囁いている。これは最近読んだ本の影響。

私が生きることができるようになります。