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人肌程度のぬるま湯のような

太陽のような人と月のような人、どっちが好き?と訊かれると今の私はきっと困るだろう。

ここから、多分感覚的すぎて人に伝わらない話をしていくことになる。矛盾だらけ。不可解な日本語だらけ。でもそれが今の私の考えなのだから、今日はそれを記していこうと思う。


私は刺激が苦手だ。

刺激的な毎日も、時々なら、それはそれは刺激的で興味深い体験になるのだが、繰り返し必要だとは思わない。

だから、暑苦しい人も苦手だし、冷酷な人も苦手だ。自分の口数が少ないから、勝手に冷たい人と相性が良いように思われることがあるが、悪口を言う人と時間を共にすると、私が自分の温度を保てなくなるから、精神衛生上良くないのだ。

温度は高くても低くてもダメだし、でも、内面にはそのどちらも抱えてくれていて構わないと思うから、空とか水とか、そういうそもそもの概念的なものに近い人物を好きになる傾向がある。

話し方も淡々としていてトゲがなく、音も私にとって高すぎず、低すぎない声が聴いていて落ち着く。

感情の波が少ない。だけど、決して笑わないわけでも怒らないわけでもなく、その人の中では小さく揺れているが、表面化していない。

その一定の揺れが私には心地よいのだ。


太陽のような眩しい笑顔を向けてくれる人も、その存在が私を明るく照らしてくれるような気もするし、

クールで知的な印象の人に厳しい言葉を向けられれば、時々囁かれる優しい言葉に胸を躍らせるのかもしれない。

また、物静かで、ミステリアスな人の優しさを感じて、月明かりのような心地良さに酔いしれることだってあるのだろう。


でも、私はただそこに存在している、空気みたいな、多分その場にいることに1番馴染んでいる人に対して、心が傾くことが多いようだ。

特別冷たくも、熱くも、暗くも、明るくもない、

誰の上にも平等にある空のようで、生活には欠かせない水のようで、状態はさまざまに変化するけれど、そこにあたりまえに存在し、いつでもどこでも、その場、その時間から浮くことのない人。


そのような人は、再び私の前に現れるのか。

現れたところで私がその人のそばにいることが出来るのか、正直全く検討がつかない。

突如、どんな人に私は惹かれるのだろう、なんて疑問を持ち始めたのも、ずっと前からの思いの積み重ねなのか、今、こんな状況だからひとりが寂しくなったのか、はたまた、その両方なのか。


ただ、ひとつ言えるのは、これから誰かに惹かれることがあったとして、その人は絶対にその場の空気を壊さない人だから、みんなに優しいのだ。

勿論私にも優しい。

さも、それが当然のことであるように私に話しかけるから私も勝手に嬉しくなるが、その優しさは特別じゃないから、きっと、私はその人が話しかける沢山の人に嫉妬するんだろう。

そして、逆に言えば、そういう人だから惹かれるし、私にだけ特別優しい人に対して、私は恐らく何も感じないんじゃないかと思う。周りの人と、私で、対応が違ったり、感じる温度に差を感じたりしたら、きっと私はその人のことを魅力的だと思えない。

まぁ、例えば異性に、私だけ特別扱いしてもらった経験なんてないのだけれど。

あぁ、とっても面倒な気がする。

これから先の人生、素敵な人には出会いたいが、そのせいでもやもやとした気持ちを抱える時間が増えるのだろうか。

それともそれを避け続けて、結果的に、新しい家族は作れずに終わるのだろうか。

まぁ1人でもそれなりに楽しい人生は送れそうだけれども。どうせなら誰かと生活を共にしてみたかったなぁ。


ただそこに、当たり前のように存在してくれる人を隣で感じながら、あぁ今日はちょっと機嫌が悪いのね、とか、何かいい事あったのかなぁ?とか、その人の分かりにくい変化を眺めながら生きてみる人生に憧れてしまうなぁ。


あとは、もし、そんな未来を想像するならば、きっと相手も私に魅力を感じている必要がある気がする。お互いが心地よいこと、両想いという確率、一体どれほどの奇跡なんだろう。


その奇跡を私は肌で感じたことは無いから、

もしかしたら未来のどこかで遭遇するかもしれないその奇跡を、

ほんの少し、夢見て生きてみようかな。

サポートを下さった方、私の言葉をほんの少しでも好きだと思っていただき大変嬉しく思います。美味しいご飯か、魅力的な本か、大好きな映画に。