口を開けば『モチベ』
Twitterにはうんざりする要素がいくつもあった。
その一つが、過剰な褒め合いだ。
溢れ返る「好き」「凄い」「神」などといった賛辞の嵐。
良いものを良いと言うのは、決して悪いことではない。
むしろ、心を強く揺さぶられたものなら、どんどん世に発信して欲しいとも思う。
私が気になるのは、取り敢えず言っておくか的な、安易な賛辞だ。
この人が発信するものは何でも「好き」。
この人の創り出すものは何でも「凄い」。
この人は何をやっても「神」。
好き好き凄い凄い神神好き好き大好き!
最早、好きという感情より、好きと言うことに重きが置かれているような気がしてくる。
私はかつて、Twitterで「そういった褒め合いが好きではない」と書いたことがある。
すると、
「わざわざネガティブなことを言うより、ポジティブなことを伝えた方がその人のモチベーションも上がると思います」
といったリプライを貰った。
何よりも、私とはまるで感覚が違うことがハッキリわかった。
まず私は「ネガティブなことを言うべき」などとはひと言も言っていない。
けれど、このリプライを送ってくれた人には、極端に言うと「褒めるor貶す」この二つの選択肢しかないことになる。
つまり、「特に何もリアクションしない」という選択肢が、当然のようにスルーされているのだ。
それに、「ポジティブなことを伝えた方がその人のモチベーションが上がる」という部分も、私自身はいまいち腑に落ちない。
勿論、人は褒められると悪い気はしない。
私だってそうだ。
書いた小説に「面白かった」と感想を貰えれば嬉しい。
けれどそれは、本当に「面白い」と感じてくれた人が伝えてくれれば良いのだ。
モチベーションなんていうものは、そもそも他人に上げて貰うものではないと、私は思っている。
創作活動をしていると、
「リアクションが無くてモチベが上がらない」
という呟きを、結構な頻度で目にする。
それを見るたびに私は疑問に思う。
書きたいから書いているのではなく、褒められたくて書いているのだろうか、と。
承認欲求というのは誰にでもあるものだから、リアクションが欲しくなる気持ちもわかる。
ただ、期待した反応がなくてモチベーションが保てないと言うなら、それはもう創作の目的が、「褒められること」「認められること」に変わっているのではないかと思うのだ。
自分の書きたいものを書いて、その上で多くのリアクションが欲しいという欲求を抱くのは、とても自然なことだ。
けれど、残念ながらそれをどちらも得られる人は、ほんのひと握りしか居ない。
やりたい放題やっている人間が社会に受け入れられるケースがほとんどないのと同じだ。
創作活動には、過剰な賛辞も、モチベーション忖度も必要ない。
もっと純粋に、「これが好き」という気持ちと、自分自身の創り出す世界に向き合うこと。
周囲の声なんて、後から付いてくるものだ。
閲覧数やお気に入りなど、目に見える『数』に振り回されて、書きたい世界が揺らいでしまっては本末転倒。
これらは全て私個人の見解なので、周りに押し付ける気は一切ない。
ただ、不要な情報は「見ない」という選択も必要だと、Twitterを辞めてから、私は一層強く実感している。
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