Twitterを離れて約半月


Twitterを辞めると、もっと不便を感じるだろうかとか、

寂しくなるだろうか、

なんて考えていたけれど、思ったよりそうでもない。


むしろ、少し昔へタイムスリップしたような感覚があって、ちょっと楽しかったりもする。


例えば本の新刊の発売日が知りたいとき。

Twitterなら、出版社もしくは著者のアカウントをフォローしていれば、発売日が近づくにつれて何度も告知ツイートがTLに流れてくる。

これは、新商品の発売やライブ・イベント関連の開催日程なども同様だ。


けれど、まだTwitterが今ほど普及していなかった時代を経てきた方には、是非一度思い返してみて欲しい。

Twitterどころか、インターネットすら定額制では無かったような時代。

我々はどのようにして、新刊の発売日や、ライブの日程を調べていただろうか。


新刊の発売日なら、書店に貼られた発売予定日リスト。

ライブの日程なら、音楽またはチケット雑誌など。


基本的に、欲しい情報に関しては自ら能動的に動かねばならないことがほとんどだった。

対してTwitterというツールは、情報に対して完全に真逆と言っても良い。

強いて言うなら、自らアクションを起こすべきは、アカウントのフォローくらいだ。

指先一つの動作によって、そこからは受動的に情報収集出来るのが、Twitterというツールではないかと私は思っている。


たったそれだけで、これまで直接店舗へ足を運んだり、雑誌を見て調べたりしなければならなかった情報が、全て一つのツールで閲覧出来るのだから、とても便利だ。

告知する側としても、広告を刷ったりする手間や費用を削減出来る。拡散などの機能によって目につく機会も増えるわけだし、正にWin-Win。

人間関係に関しても同じで、こちらから「元気?」と連絡しなくても、TLを眺めていれば、フォロワーさんたちの状態がすぐにわかる。

私もその便利さに沢山恩恵を受けてきたし、Twitter上で知り合った方々にも、本当にお世話になってきた。

そこには純粋な感謝しかないし、その方々のお陰で今の自分があるとも思っている。


けれど、前の記事で書いた『過剰な賛辞』もそうだが、Twitterに居続けることで、かつては能動的だった部分が、いつの間にか受動的になってしまっているのも感じていた。


Twitter上で度々繰り広げられる『学級会』。

例えばAさんが、『私は懇意にしていたBさんから突然ブロックされて、とても辛い思いをしました』とツイートしたとする。

すると、Aさんのフォロワーさんたちが次々に、Aさんを擁護し始めるのだ。

慰めるくらいならともかく、結構な割合で

「Aさんは何も悪くないよ!」

「そんなBさんのことなんて放っておきましょ!」

と言う人たちが居るのが、Twitterという世界。

Aさんのツイートだけでは、実際にAさんとBさんの間で、どのようなやり取りがあったのかもわからない。

Aさんが自覚していないだけで、Bさんには何かしら、Aさんに対してブロックに値することがあったのかも知れない。

にもかかわらず、Aさんの言い分だけを聞き、何故か一方的に、善悪を決めつけてしまう人たちが居る。

しかもそういう『偏った正義』を振りかざす人は、大抵無自覚であることが多く、そこが恐ろしいところでもある。

善悪を判断するのであれば、せめてAさんとBさん、両者の言い分をそれぞれに聞いた上で判断すべきところを、受動的に受け取ったAさんからの情報に流されてしまっていることになる。

私は、もしかすると自分もこんな風になってしまっているのでは…と思うようになり、一度Twitterというツールから離れてみることにしたのだ。


この先、また時間が経っていく中で、私自身がどう変化していくのかはわからない。

けれど、欲しい情報をその都度探したり、話したい相手にはLINEやメールで自ら声をかけるようになったことは、

引きこもりな私をほんの少し、能動的にしてくれている気がする。



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