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本屋の温もりを思い出して今日も生きる

私にはお気に入りの本屋がある。
結婚を機に夫の故郷で暮らすことになった私は上手く馴染めずに心細い日々を送っていた。
そんな気持ちにやさしく明かりを灯してくれたのが本屋である。

そこは大型書店ではなく、小さいけれど長らく愛されてきた個人経営の本屋だ。
数年前にリノベーションをしてカフェと雑貨屋が併設された。
新刊の本もあれば、昔ながらのマニアックな本もある。そんな本屋。



この本屋にはじめて足を踏み入れようと思ったのは直感だったように思う。
木を基調とした重くも軽やかな外観に惹かれ、緊張しながら扉を開けた。
紙の匂いと本棚の優しい木の匂い、そして飲食スペースで寛いでいる人たちが相棒にしている珈琲の香りが入り交じっていた。
あまりの穏やかな空気に思わず深呼吸をひとつ。
その時、心が一気にほぐれた感覚を今でも覚えている。

本棚を見てみると、陳列されている本が一般的な書店とは少し風変りなように思った。
普通の本屋だと影の薄い詩集コーナーが充実していて途端に運命を感じた。
私の好きな作家がやたらよく目に入る。

じっくり時間をかけて本を選び、レジまで持っていくと店主がその本について色々語ってくれた。
私の選書を褒めてくれたりもした。
ほんの数十秒の会話だったけど、私にはその時間がかけがえのないものに思えた。

ある時、その本屋が読書会を始めた。
私が本を好きだと知っていた友達がそのイベント情報を教えてくれ、読書会に一緒に参加してみようと背中を押してくれた。

もともと文学部だった私はゼミの時間が好きだった。
ひとつの作品について同じゼミ生の意見を聞き、考えを深めあい、ひとつのテーマを掘り下げていく作業とその時間。
社会人になってすっかり忘れていた時間と熱量はこの読書会によってまた再燃し、私は水を得た魚のように元気になった。
そして本を読む余裕のある時(仕事の閑散期など)は、月に一度開催される読書会に参加するようになった。

そんなささやかな温もりで生きながらえる日々が続いていたが、ある時私は妊娠をした。
判明した時には次の読書会をすでに申し込んでいる状態だった。
私は悟った。
読書会に参加するのはこれで最後になるだろうと。
待望の妊娠だったので嬉しかったが、その反面、これまで通りの生活はもうできなくなるという寂しさがこみ上げたのはこの読書会がはじめてだったように思う。

読書会当日はいつも通りに参加した。
次回の読書会の案内があったがそれには申し込まずに帰った。
読書会で顔見知りになった人たちにも、本屋の店主にも、自分が妊娠をしたことは伝えなかった。読書会の参加者とはあくまで本を通じてコミュニケーションを取っているのであり、プライベートで会ったりはしていない。
参加者が普段どんな性格で、どんな仕事をしていて、何歳で、どんな暮らしをしているか、そんなことを全く知らない状態でもひとつの本について語り合えるのが私にとって心地良かったのだと思う。
だから、言う必要もないだろう、言ったらなんとなく一線を越えてしまう、そんな考えで次の読書会の申し込みをせず誰にも何も告げずその場を去った。

それからというもの半年以上の月日が流れた。私は予想通り、読書会に参加できずにいた。
理由としては妊娠による体調不良が断続的にあり心身ともに余裕がなかったからだ。
そして字を見ると酔ってしまい本も読めずにいたことが大きい。
読書会は本屋の閉店時間後に行われるので原則として夜に開催されるのだが、夜はいつも私の体調が悪い時間帯だった。
日中に本だけでも買いに行ければ良かったのだが、すっかり出かける気力も体力も失っており、自然と足が遠のいてしまった。
読書会に出向く夢を見たこともあった。
それだけ好きな時間だったというわけだが、なかなか病的である。
夢の中での課題本は宮沢賢治の『銀河鉄道』で、私は「ほんとうのさいわい」について語っていた。
夢から覚めて、しばらく放心状態になった。

そうして私は産休に入った。
仕事の引き継ぎもなんとか終わり、これまでの蓄積されていた疲労感が少し和らいだ頃、例の本屋付近で用事があったので私は久々に足を運んでみた。
好きな本屋に行くというだけなのに、なんだか緊張した。
新しい生命をお腹に宿した状態でお気に入りの場所に踏み入れるのはなんだかそわそわした。
店員さんや店主が私に気づいてくれたら嬉しいな、なんて過剰な自意識も少し邪魔をして、入り口の扉がいつもより重たく感じた。
扉を開けると懐かしい香りが一気に吹き抜け、妊娠前の生活の一部が鮮明に思い起こされた。

少し泣きそうになる気持ちを堪えて、私は本棚に陳列されている本や特集なんかをじっくりと眺めた。

相変わらず穏やかな場所だ。

半年以上遠ざかっていた間に、変わったところと変わっていないところが混在していて、それが嬉しかった。
次回の読書会の案内も貼ってあった。
産休まで頑張った自分へのご褒美にどんな本を選ぼう。
そう思いながら本屋をぐるぐる回ると、心の中に懐かしいのに全く新しい風が吹き込んでくるようだった。

そしてなんと、読書会の時にお世話になった店員さんが気づいてくれて声をかけてくれた。店員さんは「もしかして…」と思いながらも、私がマスクをしていたので確信は持てず、恐る恐る話しかけてくれたとのことだった。

私は嬉しさのあまり、なぜ読書会に参加できなかったのかを打ち明けてしまった。
そして私のことを覚えていてくれたことがとても嬉しいと素直な気持ちを伝えた。

その後、私は本を3冊選んだ。
・「森の絵本」/長田弘・作 荒井良二・絵
・「音楽嗜好症」/オリヴァー・サックス
・「どこからか言葉が」/谷川 俊太郎

赤ちゃんのために絵本も選んだのが、なんだかこそぐったい気持ちだった。
レジに持っていくと、いつもの店主がいて「久し振りだね」ととても穏やかに声をかけてくれた。「産休に入ったので自分のご褒美に本を買いに来ました」と伝えた。
そこから世間話があり、実は店主が小さなお子さんを育てていることなども初めて知った。
絵本って何を選べばいいのか分からないですね、なんて話もした。

店主からおすすめされ、追加で『BIRTHDAY BOOK(雷鳥社)』という記録が出来る絵本のようなものも購入した。

リスの装丁がかわいい

店主もこれをせっせと書いており、日々子どもの成長を感じているのだとか。
20歳になるまで書く項目があり、子どもが20歳になったら渡すのだそう。
最近、これからの育児に不安が押し寄せることが多かったので、こういった記録をつけて日々の健やかな成長を楽しむ気持ちが持てたらいいなと思い、私もはじめて見ることにした(夫に書いてもらうのもいいねと言われた)。

そんなこんなで大変ホクホクした気持ちで本屋を後にした。
「また落ち着いたらぜひ遊びに来てくださいね。元気な赤ちゃんが生まれますように」と温かい言葉もいただいた。
読書会にはもう通えないかもしれないけれど、これからもこの本屋で本を買おう。
いつか子どもも連れて行こう。
そんな新しい希望を見出せたことがとても嬉しかった。

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