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物語のLGBTQ+は「余計な要素」か

「チェーホフの銃」という創作倫理があるらしい。
物語に敢えて出したものを、使わないまま放置してはいけない、という意味。

これを守らないと、
「途中出てきたあれ結局何だったの?」
みたいな感想になる。

そしてこれが作品内にLGBTQ+(性的少数者)が出てくることへの批判に使われてるという。
『虎と翼』というドラマでLGBTQ+が出てきたことで物議を醸したり醸さなかったりしてるらしい。自分は観てないけど。
つまりどういう批判が出てるのかというと

物語に「LGBTQ+」を「敢えて出した」なら、それを伏線にしろ
そうじゃないなら余計だから出すな
LGBTQ+がテーマじゃない、つまりその要素が余計なのに出してる作品は、
ポリコレを意識しただけの駄作だ

ということらしい。
こういう感じの、LGBTQ+を作品に出して欲しくない人を「不要派」、
それに反論する人を「必要派」と呼ぶ事にする。

必要派の反論は、
何が「普通」で
何が「敢えて出した『異物』」であるか
という境界線が決まっていないことを前提にしている。
詳しく言うと、

LGBTは実社会に8〜10%ほど当たり前にいるもので、
「敢えて出したもの」ではない

例えば何もない空白の脚本の中から、作者は人間を毎回「敢えて」出しているが、人間そのものが存在することを「敢えて出した」と捉える人はいない。

逆に人間を出さなければ、
それが「敢えて人間を出さない」という「敢えて出したもの」になる。
人間は出さない方が不自然になる。
なぜなら実社会で人間がいるのは普通だからだ。

同じように、
実社会に一定割合存在する存在(LGBTQ +)を出すことに、特定の伏線などの理由は必要ない。

ということだ。
さらに必要派かつ過激派の意見になると、

「社会は多様性を受容する流れなのだから、LGBTQ+要素に関するあらゆる反論は許されない、黙ってろ。」

という追伸がつくこともある。それはなんかこう、言い過ぎではないかとも思うが、
「差別的な発言を許容しない事は自由の侵害足るか?」というのはまた別の問題なので今回はほっとく。

そういうわけで、この対立は何故起こってるのか。
面白そうだから考えてみたい。
こういう対立は大抵自分が正しいと思う立場の主張だけを取り上げ、そうでないものは怒りに任せて真っ向から否定するのがTwitter(現X)流コミュニケーションだ。
私は必要派であるため、この流儀に則ると後者の反論を書いて終わりになるのだが、
相手の話の理屈を考えるのが趣味なので色々眺めながらやってみた。

これを読んだ人が、最終的にどちらの意見も理解できる状態になってくれると嬉しい。
別に共感はしなくてもいいが、存在していることを理解し、自己理論の過剰な一般化を止める事が大事だと思う。

まずこの対立の根本には、
主張する人の世界観の違いが原因にある。

前者のLGBTQ+不要派は、自分の周りにそういう人は居ないという環境が普通のものとして生きている為、
LGBTQ+が作品に出てくると「普通」じゃないものとして映る。

その一方、
作者は「普通」として書いているので、
作中で伏線として回収されることはない。

すると、
本人の中では「敢えて出した」はずのものが、何も回収されずに放置されたようにみえる訳だ。

本人からしてみれば不可解極まりない。
彼らにとってLGBTQ+とは、
最近湧いたように出てきた、新しく、見慣れず、この頃テーマにされるようになった、
よくわからない異物でしかない。

性別は男か女のどちらかのはずで、
好きになるのは異性が普通だと、
意識か無意識かに関わらずそう考えている。
その「普通」から飛び出した存在を敢えて書いたのだから、それを書くということは、
「そういうテーマの作品」だという事に他ならない。

自分は「普通」の歴史モノやら恋愛モノやらやらを見ていたはずなのに、注文と違うものを出してくるな。
という気分なんだろう。

全く期待外れのものが出てきてがっかりする気持ちは分かる。
しかしLGBTQ+が「普通」じゃない、突然湧いて出てきたもの、と考える事には若干無理があると言わざるを得ない。

実際には、今までLGBTQ+は「いなかったのに湧いてきた」のではなく、
「言えないから黙っていた」ために周囲からただ認識されていなかっただけだ。

自分が聞いていないこと、見ていないものを、「存在していない」と考える部分に誤解がある。
自分の周りにいないのは、「その人に言うと否定され、傷つけられる」と感じ取って言わないだけかもしれない。

こんなのをわざわざ読む人の中で不要派の人がいるかはわからないが、
もし理解できないとしたら、
自分の好きな趣味などに置き換えて考えてみてほしい。

複数人の集まりにいる時、
「〇〇ってガチきしょいわ。〇〇好きとか言ってるやつ頭おかしいんじゃないの?」
とか言ってる人がいたとする。
周囲の何人かもそれに同意している。

そしてあなたがその〇〇を好きだとして、
この後に
「〇〇めっちゃ好きなんだよね」
って言えるか?

言えないよな。言ったとしてもめちゃくちゃ気まずくなるか、最悪の場合自分は迫害の対象になるかもしれない。それは避けたい。
つまりそういうことだ。

この沈黙の繰り返しにより、今認識されているあらゆるマイノリティは、その認識以前に
「存在していなかった」事になっていたと言ってもいいかもしれない。

もし新しい異物が理解できず、あり得ないと思ったとしても、存在していることは否定出来ない。

「こうであるべき」という規約は、
現実世界を規定・変更する事はできないのだ。

逆にLGBTQ+が周囲にいたり、当事者であったり、多様性を擁護する立場であったりする場合、LGBTQ+はいるのが普通になる。

その普通を今まで書かなかった事がおかしかったのだと考えて書く人もいるだろう。

そうした世界観の違いで、対立は起こるのだ。

「普通」が移り変わっている今この時期ならば、こういう議論が出てくるのはおかしくはない。
その変遷の様子を見ているのは興味深い。

不要派にとっては残念な事態かもしれないが、少数派に対して寛容な姿勢をとり続けるというのは悪い話ではない。
あらゆる面で多数派に属せる人間というのはなかなかいない。
いつか、どこかの何かの場面で少数派に回る時というのは誰しもある。

その時、不寛容な立場を取っているものはブーメランに刺さって死ぬ。
寛容だったら、その事態は回避できる。

私としては、これまで「普通」だと思っていたものがひっくり返され、自分の立場が脅かされたような気分になる時のあの心理的苦痛が正直言って快感なので、
これから未来に起こる歴史的転回にも期待している。
また、LGBTQ+の概念が登場してくれたおかげで、「名前のついていなかった何か」がより明細に語られるようになるという変化は好ましい。世界の画素数が上がるように感じる。

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