中の人と、思考

おひさしぶりです。
みなさまいかがお過ごしですか?

久しぶりのnoteで緊張しております。どんな自分を出せばいいのかわからず困惑しております。
note上の人物「みーな」の「中の人」はどんなカラーの、どんなトーンの人だったっけ?と、手探りで書いております。

実生活でも、間が空いてしまった友人に連絡を取るときは、いつも「いかがお過ごし…」ようにカタイ感じになってしまいます。

そういう時に「元気~?」と、軽快に切り込めたなら~って、そもそもそんな人間だったら、このようにうだうだしてないんであって。
若かりし頃は、勢いだけで突っ込んでいけたのだろうけど、お元気じゃない時も、大変な時もあるだろうし、相手が返答に困ってしまうかもしれない、と迷いが生じてから、迷いに迷った挙句、カタイな〜よそよそしいな〜と思いつつ、いつも「いかがお過ごしですか」に行き着いてしまうという、こんな思考の持ち主、それがわたくし、みーななのです。ん?ちょっと取り戻しつつあるな、よし。

思考と言えば、最近、『博士の愛した数式』を読み返しました。
その中で、記憶が80分しか持たない博士は、大事なことをメモして、服に安全ピンだったかな?でつけるんですが、
博士はメモを見ることで、大切なことを思い出して、従前の生活に戻るのだとばかり思っていたんですが、そうではないんだな、と新たな気付きを得ました。

メモの言葉から、思考を経て、たどり着く。
記憶ではなく思考で、同じところにたどり着く。
自分の思考だと必ずここへ来るはず。記憶はできなくても、自分の思考の道筋は変わらないはず。
そこへの信頼ってこうも揺るがないものなのかと、それだけを頼りに戻ってくるって、なんというか「頭脳的力技」だなぁと、いたく感動しました。

思考は裏切らない、ってことですかね。
私は私、私が私、どんな感じで書いたらいいかわからなくても、気にすんな、ですな。だいぶもどってきましたね。

さて。
無水鍋を買ってから、15年以上になります。
肉じゃがを作るとき、水はあまり入れなくても焦げ付くことなく、ほくほくに調理できます。
が、全く水を入れないということはできなかったんです。必ずちょろっとお水を入れていました。びびってたんでしょうね~現状維持でいいや、ってのもあったと思います。

つい最近になって、水を入れずに作ってみたら、肉じゃがが我が家の人気メニューに躍り出ました。
「あぁ~肉じゃがか…」が「あ!肉じゃがだ~」になったのですよ。
無水鍋は無水に限る、だって無水鍋なんだから。

しかしなんだったのだ、15年も、私の残念な肉じゃが歴15年、いらなかったんじゃないか、もっと早くやれよ、とも思うのですが。

無水調理にはちょっと勇気が要ります。
味付けをしてから10~15分ふたをして、すこーし火を弱めて、ただ放置。
中で焦げてやいないかしら?火の通りにムラが出るんじゃないかしら?等々、不安やら疑念やらがむくむく。
ここをぐっっっっとこらえることが肝要なんですよね、きっと。
食材から出る水分が蒸気となり、鍋の中を蒸気が行き渡ってほくほくの肉じゃがができる、このイメージを強く信じて、じっと待つ。赤子泣いてもだめなんです。
開けて見たり混ぜてみたりした方が楽なんですけど、それって自分が安心したいだけで、料理のためにはなってないんですよね。

奴ら(食材とお鍋)に任せてみる。
そこらへんが大事なのかな、と。

そうすると、できあがりには、
「ちゃぁんと炊けてるじゃないの~あなたたち(食材とお鍋)の力でできたじゃないの~」というちょっとした感動が待っている。

この歯がゆさ満点のドキドキに覚えありーと思ったら、
そうだ、あれだ、これは、い、育児、いや子育ての、しかも終盤戦のアレコレとよく似ているじゃあないか、諸君。

心配だ、が。
見守るだけって辛い、が。
手を貸した方が合理的だ、が。

何もしない勇気を持たねば。
そろそろご本人に委ねようか。

肉じゃが製造中の鍋を見ては、子を想い、
てんやわんやな子を見つめながら、ほくほくの肉じゃがを思う、
それが私の「中の人」で、私だけの思考。
ブランクがあっても中身は変わりません、よね。(ちょっと不安)

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