捨て身
子どもの頃、母方の祖父に将棋を習った。兄弟と一緒にならったのだが、私は一向に上手く?強く?ならなかった。勝ち方を知らなかった。駒を進めていくことはできるが、展開した後の仕舞い方がわからなかった。先を見通して、切り込んでいく、詰め寄せていく、そういう感覚がたぶん皆無だったのだと思う。超感覚的人間だし。
大人になり、結婚してたぶん母にもなっていただろう頃に、将棋ブームが来た。夫と夜な夜な将棋。マグネットの将棋盤で、翌日に持ち越すことも簡単。自分の頭の使ったことのない部分をフル活動させている感じが面白かった。
子どもの時にはできなかったことが、いつのまにかできていることがある。広げた風呂敷を畳むように、相手の王を目がけて、攻めをどう集約させるか、盤上を操るか、支配するか。布石を打つ、は囲碁だけど、将棋でも使ってもいいかなぁ。
昔は駒を失うことが嫌だった。でもお互いに同じ駒を持ち、交互に攻めあうのに、駒を失わずに、相手の布陣に風穴を開けることは難しいし、駒を得ることも難しい。何も失わずに得ることはほぼ不可能なんだな。そりゃ勝てないよって。欲しいものがあるときは手を放せって、何かのセリフでもあったっけ。
大人になり、親となり、そこが大きく変わっていた。右を斬らせて左で斬る、みたいな捨て身の攻撃ができるようになっていた。捨て身ってただ捨てているんじゃなくて、その後に狙っているものを奪取できる見込みがあるから捨てているのだ。捨てるふりして拾う気満々。でも捨てると決めたものは潔く捨てる。
飛車は取っていいよ、でも取ってる間にこっちの角は成って銀を頂くぜぃ~みたいな。逆に、飛車取らないなら、こちらは無傷でそちらの角を頂きぃ~とか。そういう二重の仕掛けを張れるようになっていた。
王を追い詰める時も、ある程度までは先を読んで、詰むか詰まないか見極めて仕掛けるかどうか考えられるようになっていた。ちょっとそれが何手先か遠くなると、考えることを放棄して「走り切れるか?行っちゃえ~」みたいに途端に感覚で暴走しちゃうんだけど。
実生活でも時々捨て身を使う。まぁだいたいが子どものため。守るもののためだからこんな力は使えるんだろうな。学校の先生や習い事や塾の先生とかびっくりされたと思うんですよね~捨て身でかかってくるから。
一歩間違えると、もんすたーになっちゃうので、捨て身戦法を使うのは他人をどうのこうのしてくれという要求じゃなくて、うちの子はこうしますので、という時だけで、アウトにならないよう、わきまえているつもりではあるんだけど。
先生方にしてみれば、この子をこうしたい、この子は伸びるわ、とか先生冥利につきないところからの申し出だったりするのかもしれない。お商売でもあるし。でも子どもの全体的なバランスやキャパシティとか、サボートする側の負担とか、考慮してくれてるわけじゃない。先生サイドの欲だから。ありがたい申し出だとしても、最終的に線引きをするのは本人で、本人ができないときは親だったりするわけで。
これを考えだすと思い出すのが、彼のこと。各方面の先生が彼に期待して高いハードルを課したと思う。彼もそれを望んだと思うし、才能も努力も申し分ないし。ただ全体的なバランスを見てくれる人はいたのかなぁ。捨て身になってでも、守ってくれる存在はあったのかなぁ。大人で一人前に活躍する人の内なる領域に深く踏み込むって限られた存在だよなぁ。何もわからないし何かを責めるつもりもないし、余計なお世話だけど、頭から離れないんだよな。
話がそれた。子どもが親から離れて行く過程で、将来的には自分でやれるようになるか、できないならせめて助けを求められるようになって欲しいと常日頃から願ってる、願わない日はないんだよ。
先日、本屋で数ある問題集の中から自分のニーズや好みに合うものを選ぶことに、悩み、面倒になり、最後に疲れて果ててしまったうちのアメ。結局、事前に私が目星をつけていた問題集を買うことになったんだけど、たくさんある中から違うものを消して行って、コレと決める過程の方が大事なんだろうな、と思い、じっと決断を待った。私は比較検討大好きなんだけど、アメは苦手みたいで。私がいなくても、探し選ぶことを投げ出さずに必要なものを取捨選択していっておくれーって切なる願い、ほんとマジで心配だから。
疲れたあとは文庫本コーナーで癒しを補充する、そこは似た者の親子。「え、〇〇アニメ化だってー」「いやーやめてー」「うまくしてくれたらいいけどね」「いやー画と声が両方はまることってあるかー?」「原作知らなかったらいけたかもー」「もう私の頭の中では全員イケメンだからむりー」語り出したら止まらない、時もある。
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