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GWのインプット’MIDNIGHT SWAN’

2023年のGWは消費活動だけなく、生産活動もしようと決めていた。生産活動のためにはインプットが必要でそのインプットの最初がこの映画。2020年公開され、ずっと観たいと思っていた映画が5月2日からNetflixでリリースされた。SMAPの中でも言わずと知れた抜群の演技力を持つ草彅剛さんの主演映画「ミッドナイトスワン」。2021年の日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、最優秀作品賞の底力を見た気がした。
※ネタバレを含みますので以下ご注意ください。

新宿で生きるトランスジェンダーの女性は、親から虐待されていた広島に住む遠縁の少女を渋々預かることになるが...。孤独なふたりが出会ったとき、愛の物語が始まる。

Netflixより

少し前に観終わったばかりの余韻がとまらないままこの文章を書いている。こんな素晴らしい作品に私の陳腐な言葉など到底叶うはずもないんだけれどとりあえず思いのままに書いてみようと思う。
最近思う。生きていくことは誰にとっても大変で、とにかく様々な苦痛から目を逸らして楽しく生きようと思っても思うように行かない。経済状況やライフステージに関わらず、なぜか生きづらい世の中。そして私は今日も腰が痛い。

親とは何か

主人公の凪沙(草彅剛)が広島にいる母親から虐待を受けた少女一果(服部樹咲)を東京で引き取るところからストーリー始まる。バレエをおどりたい一果に触れるにつれ凪沙はその思いを叶えたい、母になりたいと思うようなる。一果にバレエを続けさせたくて夜の仕事を辞め、就職し、男性の姿になる凪沙。それを見て『頼んでない』という一果。そこには感謝とそのままでいることの価値や意味を彼女なりに感じていた発言だったように思うし、凪沙もまた一果の夢を叶えることで希望を見出そうとしていたのだと思う。一果の友人のりんもまた、一果とは別のベクトルの毒親に悩まされていた。怪我でバレエが踊れなくなったりんを目の前にして医者に『この子からバレエを取ったら何も残らないんです』と言い放ち、その言葉を聞いた彼女は両親の前でビルの屋上から飛び降りる。母親とは、親とは一体なんだろう? 誰なんだろう? 凪沙は母親になるために性別適合手術をも決意するのに。愛情に満ちた他人(親戚)よりも実の親の方が幸せと決めるのは、血の強さ(血縁)と他人の目を気にしすぎる日本独特の現象なんだろうか? 未成年の一果には、その結論が出しにくいのもまた事実なのだけど。

マイノリティに寄り添うの残酷さ

少し前、タレント活動をしていたGENKING(ゲンキング)さんが海外で性別適合手術を受けたことを公開していた。(https://www.youtube.com/watch?v=PF4uLw6JVuA)その際に、心と体の性が一致しないことで『死にたい』気持ちに駆られたり、性別適合手術をすることでホルモンバランスが乱れることや寿命が短くなると言われたことも明かしていた。それでも自分自身の心と体を一致させることを優先し、その手術を受けたことを明かしていた。
ミッドナイトスワンはトランスジェンダーの苦悩も同時に描かれている。トランスジェンダーに限らず、マイノリティに寄り添うといった風潮は確かに存在する。でもこの映画の中では凪沙が母親に『病院に行って治してほしい』といわれたり、一果の母親に『バケモノ』と言われるあまりに残酷なシーンが出てくる。私も少し前、自分の知り合いが性的マイノリティのことを『障害』といったことに衝撃を受けたのだが、これが現実で実際のところ寄り添うのは表層的なものなのだろうと思った。
以前、私がとある病気で悩んでいた時も結構な心無い言葉を言われた。言った本人は悪気がないぶん余計にタチが悪いのだけど、おそらくそれと似たようなものだと思う。人は自分で経験したこと以外のことに心を寄せることは基本的にはできない。私自身もそうだ。だから自分以外のマイノリティーに『寄り添う』なんて簡単には言えない。代わりにただそこにいること認識していたいし、自分の存在もただあるものとされたい(まあこれが難しいこともわかってはいるけれど)。様々な人が生きやすくなる世の中は理想だ。でもいつまでも戦争が無くならない理由と同じように、人は違う価値観の対象を認めたがらない。

彼女の生きた証を生きる

多くの衝撃的な出来事と現実を乗り越え、一果はアメリカでバレエを続ける。ラストシーン近くでは一果が凪沙の着た洋服(トレンチコートにデニム、赤のピンヒール)を真似てバレエのコンクール会場に入っていく。その様子は凪沙へのリスペクトと凪沙が生きた証を生きる一果そのものの姿だった。人は受けた愛情を仇では返さない。その記憶はいつまでも残り続けるものだし、その人の生きる道を形成し影響を与える。自分自身が生きた証を残せるとしたら有形物ではなく、こうした無形のものなのだと思わされる。

草薙剛の凄みと服部樹咲の存在感

この映画の中で圧倒的な存在感を放っていた草彅さん。SMAPの中では俳優デビューはかなり遅かったと思うのだけど、稲垣吾郎さんと並んで演技の凄みを案じる俳優さんだ。特に、夜の仕事を辞め一果にバレエを続けさせたい一心で男装に戻り、髪を切った時の彼の表情に言葉を失った。性別を越え、ただ愛情に満ちたあの表情を他のどの俳優さんができると言うのだろうか。派手な宣伝の大作に出演するのもいいけど、こう言ったしっかりした脚本の小ぶりな映画に出てくれることもまた嬉しかった。奇しくもSMAPだったら選んでなかったかもしれない、と思うとそれはそれで微妙な気持ちになるけれど。
そしてもう一人の主人公一果を演じた服部樹咲さん。新人ながらの存在感とピュアな思春期の様子をリアルに演じていた。セリフが少ないからこそ表情でみせ、目で見せるその演技は初期の蒼井優を思わせた。劇中のバレエの実力も本物で、このバレエのシーンがまたまた前編を通して流れる悲しみのなかに一筋の希望を添えてくれた。

無理に観てとは言えないけど、観てほしい(どっちやねん)

万人受けする映画ではないことはわかっているし、ストーリーや展開に一部雑さがあるのは100も承知の上だけど、それでも言いたいのは、多くの人に届いてほしい作品であると言うこと。自分がいかに無知であるかや表層的であるかもわかり、痛いところをつかれると言う意味でも決して楽しめる作品ではない。全編悲しいし、辛いけどでもそれでもまた生きていかなきゃいけないと思わされる。だけど、多かれ少なかれ生きづらいのは自分だけではない。そう思うことができると少しだけ明日に希望が持てるはずだ。

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