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シンガポールのリベンジを、近所のおじいさんで果たす

目の前にいるのは、黄ばんだランニングシャツとくすんだグレーのズボンを身にまとったおじいさん。

私は、このおじいさんと向かい合った瞬間、何かが変わる気がした。



人生で幾度となく「自分の長所と短所」を考える場面に出くわすが、私はいつも「短所」の欄が先に埋まっていた。

中学生か高校生くらいだったと思うが、いつからか自然と周りの人と自分を比べるようになり、「みんなはできてるのに私はできない」と思う機会が増えていた。

例えば、一番仲良くしていた友人は、授業内容にわからないことがあったら、友達や先生に聞いていた。別の友達は、好きな先輩を見つけるとわざわざ駆け出していった。
みんな、積極的だなぁ。

私は、人に話しかける、その行為にとてもハードルの高さを感じる。
「今」話しかけていいのか、口を開けて最初に発する言葉は何がいいのか、それが全くわからない。
しばらく悩んで、結局「別に話さなくても困らないや」と自分を納得させその場を去ってしまう。

社会人になってからもそうで、わからないことがあっても人に聞くということができない。だから、自分で解決しようとする。けれど限界がある。
わからないのに1人で行動するから、気づいたら修正が難しいとこまできてしまうこともあった。

「人に話しかけられない」というのは、私がずっと抱えてきた悩みであり欠点だ。

いつも、この性格をどうにかして変えたいと思ってきた。



19歳の誕生日を5日ほど過ぎたある春、大学の春休みを利用して私は1人シンガポールへと旅立った。
1人で遠くへ行く、ということも初めてだったし、それまで日本から出たこともなかった。北の田舎町で育った私は、高校卒業後に上京すること自体、自分にも家族にも一世一代の大イベントだったくらい、狭い世界で生きていた。

だから、当時は「1人で海外に行ったら何か変われる」と思っていた。積極性を持った自分の姿をイメージし、そうなることを信じ京成線に乗った。

結論を言うと、私は何も変わらなかった。


私はかなりの方向音痴で地図が読めないから、目的地までの道のりは「目印」を覚える。「あの大きな赤い看板を左に曲がる」という感じで。

シンガポールでのある日、最寄り駅のブギス駅を降りた私は一瞬でパニックになった。市内観光に夢中になりすっかり日が暮れてしまったのだが、辺りが暗くてホテルまでの目印が見えない。
「ホテルロイヤルアットクイーンズ」はブギス駅から徒歩1分(地図にはそう書いてる。実際はもうちょいあった。)なのに、私は何十分もさまよい歩いた。もう、泣きそうだ。というか泣いていた。

こういう場合、恐らく他の人なら、通行人に声をかけるだろう。シンガポールは英語が公用語だ。ホテルロイヤルアットクイーンズはどこですか、くらい簡単に聞ける。
というか、そのために私はシンガポールを選んだのだ。英語が通じるから。

なのに、私は声を発することが出来なかった。
読めもしない地図を広げて、突っ立っていただけだった。
ホテルに戻れないのなら私は日本に帰れない、くらいに思うのに、それでも人に話しかけられない。暗闇はどんどん増してくる。

すると、突然、30代くらいの背の高い男性が私の目の前に立った。
ああ、もうダメだ、私はさらわれて、日本に帰れない、ここで死ぬかもしれない、と思った。本当だ。

しかし、目の前の男性の顔は優しかった。どうしたの、みたいな感じで聞いてくれた。だから私は「ホテルロイヤルアットクイーンズはどこか」を必死に聞いた。クイーンズの”Q”の発音が全然伝わらなくて、「クイーンズ!」「クゥイーンズ!」「キュイーンズ!」とかいろいろ言ってもダメで、Qくらい聞き取れなくても「ロイヤルアット~イーンズ」の流れで何となくわかるだろ!と半ば相手にイライラした自分勝手な自分を抑えながら、結局印をつけた地図を見せて彼に伝わった。

「あそこだよ!」

彼が指さした先に、冠とHとRで作られた、紫色に輝くホテルのロゴが見えた。なんと、目の前ではないか。


良かった。これで日本に帰れる。嬉しくて泣いた。とびっきりの、「Thank you!!!!!!!!!!!!!!!」を彼に伝えた。

けれど、部屋に戻ってからは悲しくて泣いた。

「積極的になれる」と思って1人でシンガポールに来たのに、私は困っても人に話しかけることができなかった。

授業内容がわからなくても、誰にも聞けなかった放課後のように。
憧れの先輩を見つけても、遠くから見ることしかできなかったあの頃のように。

シンガポールには、そんな今までの自分と、何も変わらない私がいた。


もちろん、帰国後も。



ある蒸した曇り空の午後だった。

娘がぐずって抱っこをせまり、腕が疲れていた私は娘を抱っこ紐に入れて玄関へ向かった。
部屋着にしている、いきものがかりのライブTシャツと、プーマの七分丈パンツのままで。
玄関にかけてある帽子を目深にかぶると、ぐずっていた娘は無言で私を見つめる。

薄暗い玄関のドアを開けると、灰色の空は狭いアパートのもやもやした空気を吸い取ってくれているかのようだった。

日焼け止めを塗らないまま出てきちゃったし、家の周りを適当に歩いてすぐ帰ろう。
そう思い、抱っこ紐に収まる娘の背中に手を当てながら、近所をふらふらする。

アパートの裏手にある、10階建てマンションの前を通ったとき、その左側の小道に寝そべるたくさんの猫に気づいた。というか、こんなところに道、あったっけ。

パッと見ただけで、猫は5~6匹はいたと思う。道路に、お腹をべたっとくっつけて、のんびりとした表情でこちらを見ている。

この数が同じ場所に集まっているのは、ちょっと珍しい。それに、好奇心旺盛な娘に、たくさんの猫を見せたい。
立ち止まっていた私の足は、猫のいる小道へと吸い寄せられた。


娘と猫を見ていると、私の視界に小柄なおじいさんが入ってきた。

近所の人かな。

私はそれくらいしか思わなかった。

おじいさんはすぐ家の中に入っていきそうだったけど、玄関先の花を確認したのか、一瞬歩みを止めた。私と向かい合う形になった。

私はこの瞬間、なぜか「今だ!」という声が聞こえ、気づいたら

「ここら辺に、猫、たくさんいるんですね」

と声を出していた。


おじいさんは優しく私と娘を見て言った。

「こんなにたくさんいるんだから、好きなの持って行きんさい」


なんかよくわからなかったけど、とりあえず、私は今、おじいさんと会話をしている。

この会話を始めたのは、私だ。

なぜだろう、おじいさんともっと話をしたいと思った。

おじいさんの話は続いた。

「10年くらい前からね。あそこの家の人が、猫に餌をやり始めたのさ。
そしたら住み着いてしまったと。
子猫は増えるし、うちもほら、あそこの壁やられて。この辺の住人はみんな参ってるんだ。
あそこの家の人、あれ頭おかしいから通じないの。誰が言っても、警察に相談しても、ダメだね。
だからさ、猫好きなだけ連れて行って良いよ。」


私がただ「可愛い」と思って近づいた猫は、目の前の人には180°違って見えている。
同じものを見ているはずなのに、こんなにも捉え方が違うなんて、驚いた。


それを知れたのは、私がおじいさんに話しかけたからだ。
たった一言、発しただけで、想像もしなかった話が返ってきた。


人に話しかけるって、楽しいのかもしれない。


目の前にいるのは、黄ばんだランニングシャツとくすんだグレーのズボンを身にまとったおじいさん。

私は、このおじいさんと向かい合った瞬間、何かが変わる気がした。
そして、本当に変わった。

私が今までできなかったことが、できた。

シンガポールで達成するはずだった「人に話しかける」という目標を、その後何年も抱えて生きてきたのに、近所のおじいさんであっけらかんと果たしてしまった。



私は、人ってなかなか変われないと思っている。

けれど、「変わるタイミングはくる」と思っている。

私の場合、自分が変わるタイミングは「今」だった。
娘を出産した、今。

先ほどのおじいさんに話しかけることができたのは、今までの自分と違い、「娘がいたから」というところが大きい。

娘に、人と人の話している様子を見せたいと思った。
外の空気を少しでも長く吸ってほしいと思った。
猫がたくさんいる秘密を娘に教えたいと思った。

全ては「娘のため」だった。

私は娘がいると、怖がらずに人に話しかけられそうな気がする。

娘がいたら、なんだってできる。


独身時代、自分を変えようとどんなに海外に行っても、セミナーとか受けても、人に相談しても、結局は変わらなかった。

けれど、娘が生まれてから、自然と変わった。

だから私の変わるタイミングは「今」だった。

人によっては、それが友達や恋人との出会いかもしれないし、仕事や趣味での転機かもしれない。お金関係かもしれない。

何がきっかけになるかはわからないけど、人が変わるのには何かしら「タイミング」が必要なのだと、私は思っている。


だから、自分で自分に納得がいかなくても、「自分を変えよう」と焦る必要は全くない。

変わろうとしなくていい。いつかきっと、自然に変われる時がくるから。


自分を変えることに時間をかけるのではなくて、今を楽しむことだけを考えた方が、よっぽど充実した毎日を送れる気がする。
今の自分が一番楽しいことは何だろう。
友達と遊ぶことかな?美味しいものを食べることかな?映画を見ることかな?旅行することかな?

自分を変えたくて迷っている人がいたら、そう声に出して伝えたい。


と、格好つけてみても、実は、10年前の自分に向けて言っているんだけど。
それと、きっと同じことを悩むいつかの娘に宛てて。




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