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この子の全てを知れなくなる時


少し前に娘が1歳の誕生日を迎え、この週末は家族3人でのんびりとお祝いをして過ごした。

娘用のケーキや野菜で作ったお寿司、ガーランド、「1」の風船、花飾り。
人生で初めて迎える誕生日を私と夫の手で作っていこうと、娘のお昼寝中にせっせと準備をした甲斐があった。ダイソーで購入したスマホ用の脚立から撮った集合写真の3人は良い笑顔だ(改めて思ったけどダイソーすごいわ)。

1歳のお祝い行事として多くの家庭が子どもに一生餅を背負わせると思うが、私たちもお餅を用意し、娘に背負わせた。大人でも重く感じる1.8㎏。案の定、娘は立ち上がれずに泣き叫ぶ。あんなに小さかった娘が一生餅を背負う姿を見るだけで私も涙がこぼれそうになる。

一生餅と同じく初めての誕生日に行う「選び取り」もやった。スポーツや筆、お金など意味が書かれたカードを用意し、子どもが一番目に手にしたカードで将来を占うというもの。
娘が1番目に手に取ったのは「本」。物知りになったり成績優秀になるとか。よし、今まで以上にたくさん絵本を買おう。

私たちの両親はそれぞれ遠方のため、この日はビデオ通話にて孫の顔を見せた。皆とても嬉しそうだ。

私は母に選び取りカードで娘が「本」を取ったという話をした。私の家族も夫の家族も本に詳しい人はいないから、占いであるけれど娘の将来が楽しみだねと言葉を交わしながら。

「あらぁ!〇〇(娘の名前)ちゃん、素敵なの選んだね」
「ほんとね」
「ちょここも本好きだもんね。〇〇ちゃんはママに似たのかな」

私は驚いた。何も言えなかった。確かに私は本を読むのは好きだけれど、「本好き」と言えるほどではない。好きな作家がいたり本について語れたりするわけではない。話題になった本をたまに読むくらいで、(今はそう思ってはいないが)暇つぶしという感覚だった。

でも、母は私を「本が好きな子」と思っている。なぜだろう。

思い返してみると、私は小学生のころは比較的本を読む方だった。図書館に通っていたし、教室の後ろに担任の先生の私物を並べた「5年1組専用図書館」の本は全部読んだ。ハリーポッター、ダレンシャン、青い鳥文庫などなど。朝の読書時間がもっと欲しかった。

しかし、多分中学生くらいだと思うが、私は本を読む習慣がなくなった。好きなダレンシャンやハリーポッターの続きが出たら買って読むくらいで。高校生、大学生、社会人になるとますます本から離れた。
だから私は自分が「本好き」と言えるものではないと思っている。

つまり母が私を「本好き」と呼んだのは、私が成長するにつれ本を読まなくなったことを知らないからだろう。

親というものは、子どもが小さければ小さいほど付きっ切りになる。だから子どもの好きなもの、嫌いなもの、機嫌が良くなるとき、怒りそうなとき・・・なんでも知っている。
それが子どもがある程度の年齢になると、今までとは正反対の態度が求められる。子どもは親に自分を見せたくないときもあるし、親の干渉が疎ましく感じることもある。現に私は自分の好きなものを親に知られたくなかった。

儚い、と私は思う。育児は大変、楽しい、嬉しい、悲しい・・・たくさんの形容詞がつけられるけれど、その時々に見せる子どもの表情は一瞬で。
「子どものことは何でも知っている」というのは、ほんのひと時に過ぎなくて。
いつの間にか、「何でも知っている子ども」は目の前からいなくなっていて。

母が「何でも知っていた」私は、きっと小学生までだったんだろう。

私も今は娘のことを何だって知っている。夫よりも知っている。
それが、私もきっといつか娘の全てを知れなくなる時が来る。
「娘はヨーグルトが好きだもんね」と言ったら「いや、私ヨーグルト好きじゃないし」と思われる日が。

それを知ったときに、ちょっと寂しくなりつつも「娘は大人になったなあ」と受け入れられると良いなと思う。

子どものことは何でも知りたいと思うのが親の心だと知ったこの1年。
同時にいつかこの日々が終わると気づいたのもこの1年。

今は全力で娘を抱きしめて毎日を過ごそう。

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