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自分がなぜ辛いのか考えた結果

辛い原因がわからない

私はずっと悩みの尽きない人です。相談していた友人には、
「○○の悩みって根本的な解決がないよね」
と言われたくらいです。

でも少しでも解決しようと行動に起こすバイタリティはあります。

なぜなら文句を言ってるだけで改善しようとしないのは不幸な自分に甘んじていると思うからです。

だから、すごくモヤモヤしていたり、気分が沈んでいたり、ムシャクシャしている時は、なぜそうなっているのか、何が原因なのか、何をしたらそれが解消されるのかを考えます。

それが仕事や学業のことだったら大抵は解明されます。

「つべこべ言ってないでとりあえず取りかかれ、わからなかったらわかる人に聞いとけ」

と即座に心の中の実は飴玉とかくれる系のヤンキー姉ちゃんから処方箋を出してもらえます。

でも「じゃあ私よ、何がどうなったらその心は晴れるんだい、とりあえず言うてみい」と問いかけたときに、ぐすんぐすん言ってる心の中の小さな私は超顔ぽかん?としている時があるのです。なんやねんお前。(姉ちゃんに感化されている)

何が嫌でこんなに苦しいのか、見当がついていない。受験生だったら一番点数が伸びないパターンです。高三10月くらいの焦りを感じます。


トイザらスのカタログ

原因はなんなのか、考えたり考えなかったりして飼い慣らしていたのですが、後輩のnoteを見ていたら、ああ、これだ、となりました。


後輩が言っていたのはこうです。(自分で要約しています)

この世の大体のモノ・人・体験というのはほとんどが替えが効くようになっていて、ほしいものが得られない時、その代用品で穴を埋めている。
でも身の回りのものが代用品ばかりになってしまったら、どこか満足できないし、穴を埋める自分を情けなく思ってしまうし、それは少なくとも幸せとは言えないのではないか。


子供に例えたら、クリスマス前に送られてくるトイザらスのカタログを目の前にして、これが欲しい!というものを一つ見つけたわけです。

でもその家庭は貧しく、幼いながらもそれを感じ取っていた子供は、本当に欲しかったものではなく、もっと安く手に入る違うものをお母さんに頼みます。
「私これが欲しいよ!」と言うことで自分に「本当は最初のやつじゃなくてこっちが欲しかったんだ」と言い聞かせるわけです。

これがクリスマスのプレゼントだけだったらまだ落ち着けるかもしれません。

でも、それがもっともっと増えたら?
本当なら当たり前に享受されてもいいものだったら?

世の中の大体のものは手に入りません。
自分の思い通りに欲しいものが手に入ると思うなんて、ジャイアンと肩を並べたい人ならまだしも私はさすがになりたくないです。(唐突なジャイアンdis)

だから、手に入らなかったら代用品で賄うのが最善策です。大人だし、よい術だと思います。

でも、自分の周りをよく見てみたら代用品でした。ほとんど。
代用品であることに気づかないようにぼやかしていたんですね。本当に欲しかったものが手に入らなかったことなんて忘れて、現状で満足だと思っていたいから。

ずっと前から少しずつ、少しずつ、溜めてごまかしていたものが露呈されてしまって、固めていたガードはガラガラと崩れ落ちてしまいました。

さあ、原因がわかった。実は飴玉くれる系のヤンキー姉ちゃん、どうするよ。(まだその設定生きてた)


2020年自制強要説

ところで、先日終わった2020年というものは、とにかく代用品を本当に欲しかったものかのように喜べと強いられた年だったと思います。

「こんなご時世なんだから○○ができただけでもありがたいと思わなきゃいけない」
「もっと辛い思いをしている人だっているんだからそんなことで喚くな」

特に印象に残っているのは、ニュース特集で中高生の部活動が取り上げられていた時にインタビューで語っていた合唱部の部長さんの言葉です。

「コロナを経て、歌えるということは当たり前のことじゃないんだな、ありがたいことなんだなと思いました。」

これ、本当にそうなんでしょうか?
そんな風に、今いる自分の世界を基準にし直す必要はないんじゃないでしょうか。

こんな感染症が流行るなんて、普通に考えたら起こらないと思っていた事態です。最初は多くの人がこれが非常だと思っていたのではないでしょうか。

でもニューノーマルという言葉が生まれ、この生活が長引くにつれて、今までの世界はありがたい贅沢な世界で、現在のこの世界が本当の暮らしなんだ、と幸せの基準までシフトさせているのではないかと思うのです。

こんなのは勝手な想像ですが、合唱部の部長さんはたくさん泣いたんじゃないでしょうか、「なんで今まで通りにできないの??本当だったら普通にできるはずのことばかりなのに。」と。
でもずっとそう思い続けていたら壊れてしまう。だから、そうやって野放しに歌えるという今までの日々は特別でありがたいことだったと思うことにすれば、手に入らない今を憂うこともなくなる。
違和感はあるけど、フェイスシールドをして、距離を取れば歌うことができるなら、それだけで自分の望みは叶えられていると思うようにしたのではないかと想像してしまうのです。

もちろん、そう捉えることで新たな一歩を踏み出せるならとてもよいと思います。その部長さんもそうであったらよいなと思います。

でも全員が全員そうはいかないのではないでしょうか。

泣きたい自分を抑え込んでいませんか?
辛いけど笑顔で振る舞い続けていませんか?
これでも幸せと言い聞かせていませんか?

そういう方に向けて言います。

当たり前なことを当たり前だと思ってはいけないのは、当たり前なことを当たり前にできる時に胸に刻めばよいのです。

こんな有事に声高らかに説教される筋合いなどありません。そんなことを強いてくる人からは逃げてしまってください。

私たちは今絶対に泣いていいし、喚いていいし、本当はやりたかった、欲しかった、って悔しがっていいと思うんです。

声に出すのでも人に言うのでもなんでもいいから、その気持ちを無視しないで認めてあげていいと思うんです。

頑張るのはその後からでいいんじゃないでしょうか。



ヤンキーの姉ちゃんはというと、一緒に泣いたそうです。姉ちゃんも辛かったんだって。
でも、小さい私と一緒に泣いて泣いて、泣きはらした後に、飴玉分けてあげたみたいです。

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