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自分に才がないことについてどう向き合うべきなのか

京アニ事件からはや1ヶ月以上が経つ中、もはや夏も終わりに近い。
連日テレビで報道されていた事件についても徐々に収束を迎えているように感じる。
そんな中、志茂田景樹先生のとあるブログ記事を目にし感銘を受けた。

先生がこちらで書かれているのは出版社による受賞作品に対するスタンスやそこへ至るまでのたった数%しかいない才能ある人物について、そして才がないものは何十年かかろうとも報われることはないのだという現実。

僕は小説家ではないし文才もないことは高校時代に理解してしまったので、この受賞に至るまでの闇については言及出来ない。
ただ、本質の内容である「自分の才がないことをどうやって人は認めるのか」ということについて思うところがあるので書きたいと思う。

僕が小学校高学年の頃、ゲームクリエイターになりたいという夢が出来、目指していた時期があった。
ゲームクリエイターといえば、まずは企画、シナリオ、イラスト、ゲームシステム、音楽と多々にわたるがやはり花形はイラストだと感じていた。
そこで最初は可愛いイラストを描きたくて必死にキャンバスに毎日1枚ずつ絵を描いていた。
当時流行っていたアニメや漫画のキャラをひたすら毎日描いていた。
しかし顔の造形だけは何度か描いていくうちに上達することはわかったが、僕自身の抱えている障害が視覚障害のため、立体感や遠近感、色調が再現出来ずこの道は早々に諦めた。

次に、それならばシナリオライターだ!と、文章を上達させるために、文章といえば文芸部だろうという謎の考えで入部することにした。
話すと長くなるので省略するが、まるで活動していない部でひたすらアニメと同人の話をしているメンバーたちばかりだった。
それはそれで学生の部活としては楽しかったのだが、如何せん僕は本来やりたかったライターとしての道を学ぶこと無く、卒業してしまった。
ただこちらについては完全に僕の怠けが原因である。
個人でいくらでも学習の仕方はあったはずだが、居心地が良い場所だった故に努力を怠ってしまったのである。

そんな自分だが、結論としてゲームクリエイターにはなれた。

何の才能もない自分がどうなったのか?
簡単な話で、イラストはだめ、シナリオも知識なしとなると、消去法でできそうな仕事を探していくと、パソコンなどIT技術が周りの人より多少得意であったためにゲームシステムを作るプログラマーとなったのである。

大学も受験したが本来やりたいことはゲームクリエイターになることで、ただのサラリーマンにはなりたくないという甘い考えがあったので辞退し専門学校へ通うことについて親を説得した(そもそも第1志望が受かっていなかったこともあり)
「俺は人とは違うんだ」とよくわからない学生の頃のいきがっていた若さもあった。

そして専門学校でプログラミングを学び、就活をするわけだがこれがまた就職氷河期に重なり大変に苦労した。
世間一般の大手企業ですら就職求人倍率が悲惨なときにましてやゲーム会社など人を雇うことなどしない。
結果として僕は同期の仲間たちが普通の一般系企業に就職する中、一人同じ学校の異なる科へ再入学することにした。
それはゲーム会社への夢が捨てきれず、どうしても夢を叶えたかったため。

結果として、半年ほどの間に情報処理科で助手をしつつ、応募するためのゲームを作成し提出、面接。
新卒というカードを捨てて就職することが出来た。
ゲームプログラマー養成学校のくせに300人近くいた人数で、僕を含めて3名しかゲーム会社に入社出来ていない惨状から、就職氷河期とゲームクリエイターへの門戸が狭いことは理解してもらえると思う。

まぁ念願の夢は叶ったが大変に苦労した。
それは今回は割愛する、楽しさだけが仕事ではない現実を知ることが出来たとても良い経験だった。

その後は今のようなITベンチャーWeb系会社に就職することとなるわけだが、ここからが本筋の「自分の才がないことに対してどう向き合っていくか」ということに繋がる。

もし僕が自分の才能を過信し、認めずに絵を描き続けていたら、小説を書いてた時期もあるが応募し続けていたら、どうなっていたかはわからない。
もしかしたら違った未来はあったかもしれない。
ただ、本質的な「ゲームを作る仕事に関わりたいという夢」を叶えるだけなら、他にも道はたくさんあるのだ。

今回の小説家になりたいという者たちについて言えばそこしか道がないので、代用がきかないため、ひたすらに創作し続けるしかなく、自分の中でどこまで頑張ってみてだめだったら別の道を探すのか、ということを考えなくてはいけなかった。
これはバンドマンが30超えても夢を見続けているのかとよく言われてる現象に近い。

趣味ならばいくらでも続けていい。
でも、商業として、イチ職業として生業にしていくならばやはりその道は道中とても厳しい。
どこかで自分は才能がなかった、もしくは自分はここまでかもしれないというのは訪れる。
その時、人は素直に認めることが出来るんだろうか。
少なくとも周りの同僚や友達で出来ている人間はいないし、それが普通だと思う。表向きは取り繕って識者ぶるやつは多く見るけどまぁすぐに見抜かれている。

会社でも自分より技術的に優れた人間はたくさんいる、技術は優れなくともコミュニケーション能力が抜群で特化した人間もいる、さらにどちらも優れた人間もいる。
そんな人達と肩を並べて仕事をしていくといずれ上記のような問題にぶち当たる。
そこまで職種があるわけでもない業務の中で自分と似通った仕事をする人間や自分の上位互換の人間がきたときにどのように受け止めるのか。
会社にとっては部署、もしくはプロジェクトがうまく周り、会社に対して利益をあげることが一番の望みだ。

承認欲求で仕事をしているわけではないはずだが、人間というものは精神の深層部では、誰かに認めて欲しい、求めて欲しいという願望は誰しもが持っているはずである。
だからこそ、自分が報われず必要とされず他者ばかりがという想いに囚われた結果、増悪や憎愛が蔓延し今回の事件のようなケースがいつまで経ってもなくなることはない。

ただ一つ言えるのはよほどのことでなければ、道は一つではないので、目の前の障害や立ち塞がる大きな壁に対して無理に立ち向かう必要はないということ。

これは逃げかもしれない。
よく言えば知恵を使って回り道をする、というのも時には必要なのではないかと考えている。僕が冒頭で長々と自分語りをしたゲームクリエイターの話はここに繋げたかった。文章の回りくどさと簡潔にまとめられない点から僕が小説家などに向いていないことはよくわかる。

まさに僕は今そういう局面に立たされており、僕は僕だ!みたいな若い頃の自分探しと似通っている気がするが、この先生きこるにはどうしたらいいのか、ずっと考えている。

どうしたら素直に認め受け入れ新しい道を探すことが出来るのか
僕は未だ答えを見つけられていない。


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