見出し画像

ピダハン-「言語本能」を超える文化と世界観 ダニエル・L・エヴェレット #読書感想文

ブラジル、アマゾンの奥地に住むピダハン族にキリスト教を布教するためにピダハンの言語を調査しに行ったら逆にピダハンの文化に感化されてキリスト教への信仰を捨ててしまった言語学者の話。

最近わたしの家族が父以外全員はまっている「ゆる言語学ラジオ」というポッドキャスト(YouTube版もある)で紹介されていて、面白そうすぎて読んだらやっぱり面白かった。気になる人はいったん「ゆる言語学ラジオ」のピダハンの回を聴いてみてほしい。めちゃくちゃ話が上手で、なんならこのラジオを聴くだけでこの本の面白いところをだいたい堪能することができるかもしれない。

ブラジルの都市から遠く離れたアマゾンの奥地で幼い子どもたちと妻を連れてピダハン族と暮らしたアメリカ人の冒険譚としてもとても面白いし、わたしは特に専門に勉強したことがないので決して偉そうなことは言えないが、言語学や文化人類学の読み物としてもとても読み応えのある本なのではと思う。

(ここからはかなりネタバレを含むので、ネタバレなしで本を読みたい方は読後に読んでいただければと思います。)

作者のエヴェレットは聖書をピダハン語に翻訳する任務を帯びてピダハンたちと暮らし、彼らの言語を身につけていく。彼らと暮らす中でピダハンたちの文化は自分たちの見たものと誰かが実際に見たものしか信じず、文字通り今を生きる文化であることに気づいていく。だから、キリスト教を布教しようとしたら逆に「イエスはどんな見た目をしている?」とか「お前はイエスを見たことがあるのか」とか言われてしまう。そもそもピダハンたちは文化的に今についてしか考えず、今を楽しんで生きているから救われたいとかいう発想がない。そして外部の文化を羨んだり感心したりして自分たちの文化に取り入れるということもない。外部の文化に娯楽として興味を持つことはあっても取り入れたりはしないということ自体が彼らの文化なのだ。作者がこのことに気づいていくエピソードも一つ一つが印象的で面白い。例えばピダハンたちは狩りでとってきた獲物を貯蔵する方法を知っているし、外の人に売る商品は実際塩漬けにしたりするが、自分達のために貯蔵することはなく、とってきた獲物はそのとき全部食べてしまう。なのにお腹が空いていてもなぜか三日三晩狩りに行かずみんなで踊り続けたりする。(別に儀式とかではなく、多分ただそのとき踊りたいから踊っている。)この話を読んでいて、なんとなくファンタスティックビーストの主人公ニュートの台詞、"My philosophy is worrying means you suffer twice."を思い出した。

最終的に作者は聖書をピダハン語に翻訳し、それをレコーダーに吹き込んで(ピダハンは文字を持たない)ピダハンたちに聞いてもらうことに成功する。録音を彼らに渡してしばらく経って村を再訪すると、彼らがまだ録音を聞いてくれているのを発見する。喜んだのも束の間、よくよく聞いてみると彼らは聖人が首をはねられる部分だけを繰り返し聞いて楽しんでいることに気づく。この話だけをピックアップすると野蛮な未開の人みたいな誤解を招きそうだが、彼らは平和的で穏やかな人々だ。ピダハンたちは常ににぎやかで笑っていて、アメリカから来た脳と認知科学の専門家に、科学的に計測するまでもなく一般的なアメリカ人より幸福度が高いだろうと言わせるほどだ。信仰なしで幸せに自律した生活を送るピダハンたちと時間をともにするうちに、ついにエヴェレットは信仰を捨ててしまう。

話はそれるが、私は何語かに関わらず、語学を学ぶのが大好きだ。言語を学ぶとその言語を話す人たちのものの見方がなんとなく体験できると思うからだ。言語が変われば世界の区切り方が変わる。例えば、中国語では日本語で「恥ずかしい」と表現するだろう状況を、もう少し細かく分けてそれぞれ違う言葉で表現する。初対面の人と話したり好きな人のことについて話すのが恥ずかしい、照れる、という状況の恥ずかしいは「害羞」だし、人としてしてはいけないことをして恥ずかしいのは「丟臉」。気まずいとか決まりが悪いという意味の「剛尬」も状況によっては恥ずかしいと訳せるかもしれない。ある言語を話す人にとって重要なことが別の言語を話す人にとってはそこまで重要ではなかったりもする。わかりやすい例だと、日本語を話すときは年上や目上の人に対して基本的に敬語を使う必要があるから、どうしても相手の年齢を意識する。英語とか中国語だとここまで気にする必要はきっとないだろう。こんな風に言語によって世界の区切り方、捉え方が違うのは、私たちの暮らす環境や文化が言語を作り上げ、変化させてきたからだと思う。だから、ピダハンの文化が言語に大きく影響を与えているというエヴェレットの考察を読んですごく嬉しい気持ちになった。私は言語学の専門家でもなんでもないけど、勝手に共感してしまった。

エヴェレットがピダハンの言語を研究する中で、ある日「右」と「左」にあたる言葉を同定しようとする。ところが右手と左手をどう区別するか尋ねてもピダハンは「手」としか言ってくれない。最終的に彼はピダハンたちが川の上流と下流、ジャングルの位置のみで方向を区別していて、自分を中心として相対的に位置を表す表現を持たないことを突き止める。だからピダハンは知らない土地に行くとまず「川はどこだ」と尋ねるらしい。

私にとって新しい言語を勉強するのは、単にコミュニケーションの手段が一つ増えるというだけでなく、世界を見るための新しい眼鏡を手に入れることであり、未知の文化を探検することだ。「ピダハン」はそんな未知の言語・文化に向き合う面白さが詰まった一冊だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?